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【Digression】(意)欲がない、興味が持てないとき

今日はお昼過ぎから、急に急激にドライ?ダウナー?な気持ちになった。ドライというか活力がなく、色々なことに意欲が湧かなくなってしまった。

こういうことは、誰しも時折起こるように思う。
これまでの経験だと、意欲が湧かず、(これまで興味関心があったことにも)興味が持てなくなった時は、そのことに対して不安や何か恐怖心を抱いていた。

しかし、今日はそうした感情すらあまり生じてこなかった。

興味関心、活力、意が失われた、とは言うけれど、あまりが失われた、とは言わない、ということが少し腑に落ちていなかったが、この体験で少し思うところがあった。

これは、語学(史)とか語用論的な見地などアカデミックな議論に基づく話ではなく、ただの私の実感、感想に過ぎないものだ。

あまり良くないニュアンスで使われる意欲がない、というような言い回しには、

やるべきことに対する熱意よりもやりたくないという怠惰さが優位にあるという不純さ、

あるいは意欲が湧かないことに対する恐怖心や不安感の生起体験からも分かるようにやった方が自分にとってメリットがあるはずといういわば下心、

が隠れているように思う。
だからこそこうした状態について、意欲がない、とは言っても、欲がない、とは言わない。

そしてそうした下心すら良く悪くも持たない、持てない時が、欲がない、と言い表される状態なのだと思う。


繰り返しになるが、これは専門的な知見でも、体系的学問的一般的な話でもない。

ただ私の言い回し、言葉遣い、について、私の体験という狭い、かなり特殊、個別的な事例に対応づけたいわばスコープがかなり狭いローカルな適用規則、語用にすぎない。


なので、整合性のとれない事例もあるだろうし、抽象化してより一般化すれば、ここで述べたことがかなりつぎはぎのあり合わせの考えに過ぎない、ことも判明するだろう。

正直、今書いていることもなんだか考えがまとまらず支離滅裂なことを書いているように思う。

ただ今はそれにすら、推敲や整合化への意志や義務感のようなものも湧いてこない。

ただ、少しでも、浮かんだことを断片的、散文的にでも書き連ねることで、何か得られるものがあるかもしれない、そう思いここまで書いてきた。

そしてここまで書いて、少なからずこの体験から何か得ようと思えるほどには(意)欲が湧いてきたのかな、と自分の心身の回復具合を感じる。
そんなところで、今回は話を閉じようと思う。

まあ、結局は、ぼーっとして、その辺にあったおやつなどを軽く摘んでゴロゴロする、という積極的な自己整調とは程遠い、いわゆる「非生産的」で消極的な一日を過ごすことで、これもいわゆる「時間が解決する」的な恢復に頼っただけだったが、まあそれも悪くないと思おう。



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