【Digression】疲れた時、しんどい時の、あるいは悲観的な自分へ
疲れた時、しんどい時というのは、誰にでもあると思います。
そんな時、ゆっくり休むことができるなら、そうするのが一番良いんだろうなと思います。
でもなかなか言いづらいことも多いよね・・・
割と繊細です(悪い意味で)
私は割と疲れやすいたちで、加えて、自分でいうのもなんだが、傷つきやすいようだ。繊細と言ってしまえば、なんだか少し綺麗な響きを持っているが、正直なところ、臆病で周りからの目を気にしやすいだけなのだろう。
その証拠に、「周りのことや細かなことに気がつく」とか、「よく気がきく」といった、繊細な人が持つべきであろう美徳のようなものは残念ながら、備えていない。
長いことこうした自分と付き合っていると、周りが自分のことをそれほど気にしていないのだろう、ということもわかってくる。
あるいは「私が思うほど、良くも悪くも周りは自分を見ていない」と思うことは「自分をうまく使いこなす」上では重要なことであるとも気づくようになった。
POISON〜言いたい事も言えないこんな世の中
とはいえ、疲れやすく、脆く、折れやすい、という点についていえば今も変わっていない。
他人より出来が悪く、人より優れていたり多くのものを生み出しているわけではないにもかかわらず、自慢じゃないが、私は人一倍疲れやすいと思う。
そういう人間(というか私)は、(自己評価が低い分)無駄に周りからの評価に敏感であり、と言うより(この言葉は正確でもないし好みでもないのだが)変に「自意識過剰」であり、なかなか「しんどいです」、「疲れています」と口にできないものだ(決してPOISONな世の中のせいではないです)。
休むことはむしろ周りにとっても有益である(と思うべし)
けれども最近、色々な環境を転々としたことなどもあって、こうした傾向やあるいは自分の行動パターンにちょっとした変化が生じはじめている。
「しんどい」、「疲れた」、「休ませて欲しい」ということを周りに言うことに対する心労よりも、休まずに何も成果が出せない、あるいはどんどんとパフォーマンスが低下している状態のまま、何か作業などをこなすことによる弊害の方が、後々自分が被る被害が大きく、翻っては周囲にもたらす損失や迷惑も大きくなる、ということに、ようやく今更になって気づいたのだ。
と言うよりも、そう思って(思い込んで)、無理にでも自分を休ませた方が、不思議と周囲との関係や自分の成果に対する満足度も向上するようになったのだ。もちろんこの「効用」も正確な指標に基づいて厳密に計測されたものではないし、この「効用」すら思いこみである可能性は否めない。
挫けて流されて逃げて・・・
もしこれらが「思いこみ」による結果であり、その成果ですら「思いこみ」であったとしたとしても、私はそれほど不満ではないし、こういう考え方で行動している今の自分に割と満足している。
誤解されたくないので、付言させていただけば、「全ては個人の思いこみ」だとか、「最終的に自分が良ければ(良いと思えるならば)良いのだ」とか言った話をしているわけでもない。
上で書いたのは「思い込みによって上手くいく」とかそういうことではなくて、むしろ(?)思い込みでもなんでも、せっかく何もできなくて臆病な自分なのだから(あるいはそう自覚しているのだから)、せめていつでも「万全な状態」でいられるように、少しでも「弱い自分」を労った方が、いくらかはマシである、と思えるようになったということである。
こういう想いを抱けるようになったのは、何もできないと悩み、悶々としながらその場に留まり続けていた頃に比べて、「逃げた」と言われようがなんと言われようが、色々と場所を変えてみたのが功を奏したように思う。
と言うか、、
さも自分で環境を選んで変えてきたようなことを言いましたが、実際は、現状にしがみつくことにすら耐えられずに、半ば諦めと悔しさを胸にそこから去った(去らざるを得なかった)のだけなのですが・・・ | -:
自分にできること
くどいようだが、私には、周りのことによく気がついて行動するようなこともできないし、気を利かせるような余裕もない。
ただ、良くも悪くも、自分に敏感であること、あるいは「ネガティブ」で「自意識過剰」であっても、自分がどれほど弱いかとか、(萎縮して思考停止・行動不能になる程度には、)自分が苦手なものとかを大変シビアに感じとることはできる(?)らしい。
この「悪目立ちする無駄な繊細さ」によって、私は「できないことを嘆き続ける自分」でいることよりも、それが思いこみや過大であっても「できることを喜び誇れる自分」でいようと思えるようになった。
もっといえば「出てもいない成果と自分の無駄な心労を得る」よりも、それに比べたら、「同程度以上か少なくとも皆無とはいえない成果をより少ない心労とほのかな満足感で得る」ことの方が、自分にも周りにも有意義であり、その程度のことが自分にできることなのだと胸を張れるようになったのだ。
ここまで書いてきて、そんなことが言いたいのかと言われればそれまでだが、せっかくここまできたので、自分のためにももう少し世迷言を書き殴る。
誰かの「弱さ」に敏感である、ということ
と言ったはいいものの、だんだん何を言っているのかよくわからなくなってきたので、無理矢理迷言名言っぽくまとめてみた。
「であるである」言い過ぎ感が否めないがどういうことかと言うと、「弱い自分に敏感である」と言うことは、もう少し一般化してみると「弱さ」に敏感なことだと言い換えられるのではないかと思うのだ。
それはつまり、自分のような「弱さ」を抱えるひとに対して、同じ敏感さを発揮できるはず、ということである。
そして、もし私に、この一般化を行動に適用するできたなら、同じように「弱さ」を抱えるどこかの誰かにもこれができるはずなのである。
この「弱さへの感度」の輪が広がれば、それは、ただ「傷を舐め合うこと」ではなく(もちろん傷の舐め合いが時には必要なこともあるが)、自分と他人の「弱さ」を受け入れて、「弱くても生きていける」場を生み出すことになるではないだろうか。
前口上はさておき・・・
「弱さへの敏感さ」について、ここまで長々と無駄話を書いてきたわけだが、肝要なことは、真に一般化(普遍化)すると言うことは、具体的で身近な行動に落とし込んでいく、と言うことである。
実際に行動する、と言うのが大変なんだ、と言うの今まさに実感しているところである。
メールと睨めっこしながら、あとはこの「送信」ボタンを押すだけと言うところで、幾時間が経ち、勢い余ってこんな記事を書いてしまっている。
やっぱり、ビジネスメールは、苦手であるいっそのこと中止にならないかな。
まあ要するに、皆さんも「疲れたり、しんどい時は、周りに合わせたり遠慮したりせず、休もうね」っていう話。
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