私の世界では、踊り狂ってQEDしている。

この時期は憂鬱だ。

とてもありきたりな書き出し…。なのに、意味のわからない繋がらないタイトル。しかし続ける。

この時期というのは、この冬の寒い時期で年末年始を超えたこの時期。本来は清々しい時期。

 わたしが気が重いのは、こないだの年末の大掃除のせいか、成人の日のせいか、受験シーズンのせいか、そんな所である。それに芋づる式に嫌な思い出が引き出されるのだ。

 大掃除。私は掃除が苦手である。これは別に良い…よくはないけど。捨てるか迷って残しておいた思い出が、クローゼットの奥や部屋の隅のファイルケースの中に入っている。それらを今年こそはゴッソリ捨ててしまおうと、年末の大掃除の度に覗き込む。すると、日記や手紙が出てきて、読んでいるうちにその頃の気持ちに戻ってしまうのだ。蘇るのは惨めな気持ちばかり。
 クラス文集の『宇宙人に遭遇しそうな人ランキング』に私の名前がある。クラス全員のメッセージコーナーには、わたしは『本当にお世話になりました。』とだけ大きく書いた。書くことなんて無かった。なにもお世話になったことはなかった。だからそう書いた。自分の中での皮肉として書いた。今でも思い出すと嫌な気持ちになるイジリ、担任も見るひとこと日記には恨み辛みを書いた。『こんなクラス変更して欲しい。早く次の学年に上がりたい。』。その日記は捨てたけど、記憶には残っている。結局、何かしてくれたわけではなかったから。そしてこの文集は、しっっっかり今年捨てた。
 本当は楽しい事もあったはずだが、記憶は嫌なものばかり貯め込み、それがわたしのこだわりや枠を作っているようにも思う。

 そして成人の日。わたしは昨年が成人式だった。もちろん、行かなかった。理由は上記の通りだ。くだらない嫌な記憶が積もった集団の中に、なぜ今更わざわざ入って行かなきゃいけないんだ。行かないよそんなの。と思っていた。
 代わりに両親とそれぞれの実家を訪ね、その足で浅草寺へお参りに行った。行く先々で『あら、成人式ねぇ』と、季節の風物詩を見るように眺められた。自分は自分としてではなく、”季節の風物詩”として街の景色の一部として存在していた。嬉しかった。
 今年はコロナ禍で成人式が行われなかった場所もあるようだ。なにも成人式が楽しみな人ばかりではない。コロナ禍ではなくとも、様々な理由で成人式に行かない選択をとり、しかし思い出は残すという、カタチに捉われない時代にもなってきた事は良いことだ。うん。

 そして受験シーズン。こんなのは思い出しても3年分くらいグダグダと文章に起こすことができるくらい重量がある。心の重みが。
 わたしは受験が上手く行ったことはない。ないとは言っても、受験をするというのは一般的に高校受験と大学受験の2回だが、両方ダメだった。高校受験は公立に落ちて、大学受験は志望校はことごとく落ちた。
 高校生のわたしは苦手な理系を選択し、成績がドン底の中、親に反対され人格まで否定され、一杯一杯だったわたしは家を出た。そして帰らなかった。高校在学中の半分、1年半もの間、自宅から徒歩数分の所にある祖父母の家で過ごした。もちろん学校には通って、受験も祖父母の宅から行った。卒業式の前日くらいに自宅へ帰った。
 そこまでしたが、望んでいた学問の扉は叩けなかった。そんな仰々しい言い方しなくとも、自分の好きな事と得意な事は合致しないんだと、心の底から諦めて学んだ。しかし煮詰まりながらも、幼少期、親の仕事が忙しい間に、自分を育ててくれた理解のある祖父母と過ごし、わたしはわたしを解放することができた。
勉強の合間に、時に粘土をこね、木片から彫刻を削り出し、絵を描き、筆で字を書いた。時にウクレレを弾き、祖母に披露した。時に古本屋であらゆる興味のある本を探し出したり、学校帰りに最寄りの本屋に寄って新書や文庫本を吟味した。ドラマや映画に没頭し頭を休めた。
 自分は理系を選択したが、このように圧倒的に文系だという事は分かっていた。国語の授業は受けなくても模試で1番成績がいいのは国語だった。特に現代文。古文に至っては流石に習っていないと点数は取りにくかったが、授業を受けている数学よりも点数が取れている事もあった。
 今思えば素直に文系にしておけば、もっと良い大学を目指せただろう。しかし良い大学とは?自分のやりたいことと将来を思い浮かべた時、文系を選択しようとはならなかったのだから仕方ない。第一、もう過ぎてしまった事だ。
それでも、分岐点に思い至って後悔してしまうのはなんとも不毛だ。にんげんだもの、に尽きる。

はぁ。こんなに一気に書き連ねた所で、誰も見る人はいない。良いのだ。自分が吐き出したいだけだから。冬は元より思考が冴えるような季節だろう。蛍の光、積む白雪。冬って寒いからやる事ないんだろうか。だから考え事が進むのか?現代人も同じか?というか学生だからだろう。そしてコロナ禍でバイトが消え飛んだからだ。わたしはバイトや課題で外部と関わりながら忙しくしている方が、健康的に頭も回転しているような気がする。
 ひとたび立ち止まってしまうと、自分の中にあるものをグルグルと回想してしまうのだ。色んな記憶や思い出の端々から飛んで飛んで、思考が流転していく。深く深く、仄暗いそれらの間を潜って泳いで行くのだ。疲れる。
考えなくても良いことをぐるぐる考えて昔の記憶に感情を掻き乱され、こんな時間にこんな文章を書いている。こんな頭の中での大冒険大航海は1ミリも外に出て行くことはないのに。テレビで特集されても良いくらい大冒険をしているのに、世界はグルグル回る私を置いて、簡単そうに回っていくのだ。いいよ、私の世界のテレビの中ではめちゃくちゃ特集されてて、私は有名人だ。なんてビッグなスーパースターだ。

はーーー、虚しくて笑えてくる。でもそれで良いのだ。なぜなら、ここは自分の世界だから。外に出ることのない、私の頭の中の世界だから。夜中にグルグル考えて大航海をしても、ふと外を見ると朝になっていて、陽は登っていくのだ。まだ何も解決していないが、結局は自分の世界を自分が肯定しているだけで充分心強いのだ。
踊れもしないし楽器も十分に弾けないし、数学も出来ないしプログラミングで効率化!なんて事も出来ないが、私の世界の私は、めちゃくちゃ踊り狂って大声をだしてギターを掻き鳴らし、ガリレオのテーマに乗せて黒板に数式を書き殴ってQEDしているのだ。
私は私の世界を生きていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?