散文の一 場所について

本当にこの場所は必要とされているのだろうか。
最近ふとそんなことを考えてしまう。

私は京都で小さなアートスペースの運営をしながら、他の場所でも展示企画の仕事をしている。小さなスペースを維持するため、そして生活のために展示をまわって作家を知り、展示を企画して開催する。
今はそれらの全てが自分の目の前で一杯一杯になっている。
何のために何をしているのかどんどん見えずらくなっていくのだ。

前提としてこれは誰かに対する訴えでもなければ誰かを貶したいわけでも誰かに助けを乞うものでもない、ただどうしようもなく結論のない話で、偏見と卑屈な思い込みで散らかったこの陰々滅々とした気持ちを整理するためだけに綴る。

自分で立ち上げたスペースは「オルタナティブスペース」という肩書きで運営していて、ギャラリーのような作品展示を中心に、小規模な演劇や物販のイベントなどをおこなっている。
芸術系の大学が多い京都は若手の作家が多く生活しており、作品発表の場を求めている人や、作品展を見て回る習慣のある人が多い。(京都は市や府が絡んで開催する大規模なアートイベントが多いことも大きいだろう)
しかし、何か作品発表やイベントを開催するとなった際、街の中心部でギャラリーなどのスペースをレンタルして一週間ほど開催するとなると10万円以上のレンタル料が必要になることがほとんどだ。製作費なども活動にかかってくる中でなかなかポンと出せる値段ではない。
そのため私は若手作家や多くの未だ見ぬ表現者たちにとって、発信や実験ができる場所が必要だと思い、値段帯を低く抑えたレンタルや、こちらから声をかけて展示をお願いするなど、もっと自由に立ち回れるスペースとして自身の場所を構えた。

他の場所での企画の仕事は、キュレーションビルのフリースペースフロアでの展示であったり、ギャラリーバーでの展示など、場所はあるが企画がないといった場所での仕事だ。
先ほどの話だと、京都はまるで作家は多くいるのに発表先の場所が全然ない土地かのように聞こえるかもしれないが、実際のところそんなことはない。
2020年に開催予定だったオリンピックに向け京都市内では多くのホテルが建てられ、また多くの飲食店や新施設も増えていった。
それに合わせてアートコレクターが増えていったことで、プチアートブームのような流れもきている為、何か商業的な施設のワンフロアでアートを取り扱いたいという場所もここ1、2年でどんどんと増えていっている。
どういったスペースとして展開したいか、どういった展示やどういったアーティストを呼び込みたいかなどには特にこだわりが無いことも少なくない。展示企画をして、それの評判が良ければ「こういうのもっとやっていってよ」と言われるだけだ。その場所が持つコンセプトや方向性などを探っても、「うちも実はあなたのスペース運営とおんなじようなこと考えてるんですよ」といったような返しをされることも稀ではない。モヤモヤするがきっと他意はなく、飲食店で隣人の注文に合わせて「じゃあ僕もそれで」ということと同じような感覚だろう。

自身のスペースの展示は極力1、2週間以上の期間を空けたくない。
定期的に通う美容院でもなければ、新刊を仕入れる書店でもない、味や雰囲気で通う飲食店でもなんでもないアートスペースは展示や何かしらのイベントを開催していなければ何物でもない。
ただ、自身のスペースでは、基本となるコンセプトは若手作家の発掘発信。場所を持ったメディアのような展開を望んでいる。作品に対してまだ認知が追いついていないと感じる作家を取り扱う事や、活躍している作家が他の場所では発表しずらい形式の作品の展開をも試したりする場所として心がけている。
そして他の場所での仕事は、その場所の持つ色や展示環境に合わせて企画を組む。
それのぞれの場所は展示の開催と同時に収益を回収できるかどうかも大切になってくる。しかし、すでに人気のある作家をガンガン呼び込んで作品の即売会のような環境になっていってしまったらそれこそ本末転倒で、そこに場所としての価値は生まれることはないだろう。
場所としてどうありたいのか、どういう場所として育てていき、どういういう場所として人が出入りしてほしいのか。それらがなければそれらは場所ですらない何かになってしまう。
きっと他の全ての仕事でも課題になることだろう。本質的に目指す方向と現実的に守らないといけないポイントを両立させるためにどういった形で物事を遂行するかという問題は常に頭が痛くなる。

そんな反面最近ふと思う。
本当にこの場所は必要とされているのだろうか。

今は作家たちも自身の作品を上げるアーカイブとしてインスタグラムなどのSNSを使って作品の写真をアップして、それを見たコレクターから直接購入についてのやり取りに発展するなんてことがある。人によっては外の場所を介さなくても大学などのつてで大きな会場やイベントへの参加につながることもある。
展示をするとなると、制作をして会場構成をしてフライヤーも製作し会場に作品を運送しなければならない。場所側が全て費用をサポートできるのが理想かもしれないが、正直自身のスペースではそれらを全て補えるほどの大きなには程遠い。
この場所を維持するための「定期的に展示を行いたい」という個人的な事情に作家を巻き込み、負担を強いている可能性を常に否定できない。
それらを払拭するためにも、自身のスペースでは「そこで展示を行うことにメリットがある」と感じてもらえる場所になり、そうあり続けないといけない。
ただこれも自我と自信が膨らみすぎるとこの業界にもよくある「経験になるんだから」という搾取的な関係になってしまう可能性もある。それが怖くもある。

そもそもを辿れば自分がスペースを持っているのはこんなジレンマの為ではなかったはずだ。
ただ面白い作品を作る作家がいて、どういう意図があるのか、どういったルーツや文脈があるのかと興奮して、こういった展示を見てみたい、あの作家の作品と一緒に作品を見てみたいと思い、自分のスペースでの展示を企画して作家と相談して作っていく。それがとにかく楽しかったのだと思う。
今は以前のように展示をゆっくりみて回ったり、見たい展示のために遠征したりといったことを随分とできていない。これに感じている不安は、言い訳がましい後ろめたさなのか、義務感に駆られた気持ちなのかも自分でははっきりとはよくわからない。

作家のためにと始めたことなのに、いつしか自分の場所のためにと目的がすり替わっているような感覚がある。(果たしてかつて自分が全て作家のためにと献身的な精神性で動いていたのかは自分でもわからないが)
多くの人から協力を得て、場所が少しずつ育ち、できることが少しずつだが増えていっているのかもしれない。しかし同時に自分の中で優先順位どんどんわからなくなっていく。
時間だけがどんどん過ぎていって、手探りで0から始めた事の未だ密度の薄い経験で色々な物事が一任されて、あんなにバタバタと忙しくしていたのに、自分はきちんとしたギャラリーでの経験は全くないまま、結局まだ色々なことがわからないまま宙ぶらりんでいる。自分が作った場所でされ、自分が任された場所でさえ、自分がそこに居ていいのかがずっと分からない。
きっとこのふわふわとした感覚はいつまでも消えないのだろうし、少しずつであれば自分で自分のことを信用できるようになっていくのかもしれないが、今はひとまずもう少し時間がかかりそうな気がしている。

こちらから投げ銭が可能です。どうぞよしなに。