上京した女の話 4

上京してもう何年になるのだろう。数字としては正確に覚えてはいるのだが、実感がわかない。正確に言えば、わかないようにしている。悪い記憶が頭の中で反復されるのを避けるためだ。いくつかの記憶はどうしても消せないが、打撃からは立ち直った。夫のおかげだ。夫は要所要所で的確な判断をして私の第一の支援者になってくれた。知人からは「人生最大の買い物に成功しましたね」と古風な誉め言葉をもらっている。

その知人は、そう、カップヌードルばかり食べる男なのだが、最近は目の調子が悪いのだという。正確に言えば、まぶたが不随意運動を起こして閉じてしまい、電柱や人にぶつかり、段差を踏み外して危ないのだそうだ。私は小説好きだから、「それを小説にしてみては」と言っているのだが、本人は自分の身体の不具合を的確に描写できない、と言って書かない。たしかに経験していない読者に臨場感を持って伝えるのは難しいだろうが、本人のなかでどう処理されているのか気になる。しかし彼は「ハコにならない話だから」と言って書かない。この「ハコ」というのはもともと、私が知人に伝えた宮本輝の言葉だ。便利でしかも含蓄のある表現だと思う。小説というものには、自分の主観の恣意的な垂れ流しとは違うものが必要だ。私は「ハコ」を含めて「小説的工夫」と形容している。しかしなかなか広まらない。自明なのか、意味を摑みかねるからなのかはわからない。

その知人にはときどき助言をしているが、彼は要らないことばかり覚えている。今日も「アルミホイル」の話になった。アルミホイルで窓を目張りするという奇行をすれば人気者になれるという話をまだ続けている。

あとは知人の先輩の話になった。その先輩はゲイとしての困難をこぼしてきたという。その先輩は、今の若いゲイたちが性的指向を明かして充実した生活を送っているのを「まぶしい、うらやましい」と言うのが口癖だそうだ。そんなときは、その先輩の大先輩に当たる思索者を例に出して、「あの人はゲイであることを奇貨として社会を先導してきたではないですか」となだめるのが知人の日課のひとつになっている。私としてはあまり賛同できない相槌の打ち方だが、知人としてはその言葉を決め台詞だと思っているようだ。気位ばかりが高い人間は扱いに困る。