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八章(9)大泣きした日

R大学の助手1年目のMは、大学が始まってみると、毎日出かけるように  なった。それも弁当持ちで。前夜の夕食時から、翌日の弁当のことも,頭に 入れておく必要があった。私の学校も始まっていたが、授業が始まるのは  翌週からだったので、送り出したあと、時間の余裕ができて、室内の片付けにとりかかった。

鴨居の上にかけた棚に、雑に重なっている箱やノート類をそろえているうちに、バサリと1通厚めの封書が落ちた。
裏を返すと、Mの妹で、私より半年年上だが、結婚後は私を〈お義姉さん〉と読んでいるY子の手紙だった。

日付は1年半前の11月になっている。私が2度目の手術を終えた頃だ。  すぐに開いて読んでしまった。

「前に口伝えで話したけど、やっぱり私はFさんとの結婚は反対です。あの人、お嬢さんで甘えん坊で、体も弱そうだし、未練はあるだろうけど、きっぱり別れた後で、Tさんとも別れた方がいい。彼女はいい人だけど、このままでは、ダメだと思う・・手を切るべきです。両方を続けるなんて、兄さんの気が知れません・・」

そこまで読んで、ガーンと頭を殴られたような衝撃を受けた。今は何事も なかったように親戚づきあいをしているのに、義妹の本音は、私との結婚に反対だったのだ。それに、Mは例の6歳年上の人と別れてはなく、両方とのつきあいを、結婚後も?続けている? 私はその手紙のそばにあった、菓子の空き箱を開けてみた。写真類や小ぶりのノートが入っていた。いつか見たあの女の人、Tさんの写真が数枚入っていた。私はその一枚だけ取り出して自分の日記の間にすべらせた。後は始末してもらうことにする。後で、宣言することにする、と心に決めた。

ぞの日、Mはいつもより早めに帰ってきた。その日、妹のY子宅の夕食に 2人で招かれていたのだ。

「寿司のタネがいっぱいあるってさ。楽しみだな」と、彼は気楽に言って、新しい紺の作務衣に着替えた。

今日は行きたくないと、私は言いたかったが、その理由を聞かれるに決まってる。しゃべりたくなくて、今は言いたくはない。何もかも胸に押しこめたまま、私はウールの着物に着替えて、いっしょに義妹夫婦の住む千歳烏山の社宅へ向かった。

「お義姉さん、気持ちが悪いの? 静かね。もっと召し上がって」と、Y子は笑顔で勧める。私がお嬢さんだって!ふふ、呆れるわ、見抜く目がないね。
私は頭を振って、薄い笑顔を返し、彼女手造りの寿司を少し頂いた。夫君が日本水産の営業マンなので、時折、刺身用の新鮮な魚がたっぷり手に入るのだ。酒好きで、よく笑い、友だちも多く、機嫌のいい夫君だった。

酒に弱いMは、ほんの少しのビールで真っ赤になって、話を合わせている。私はほとんど話さず、片づけだけは手伝った。

その日の帰りの電車の中で、帽子を深く被ったまま、涙があふれてきた。 
調布駅で下りて、Mはバスに乗りかけたが、私の胸にたまっていた鬱積が 爆発して、泣きながら、私はまっすぐのバス道を、アパートに向けて歩き 出した。Mは何が何だかわからず、声をかけようもなく、困ったように黙ってついてきた。私はしゃくり上げ、声まで上げて泣き続けた。

(どうしてMを選んでしまったのだろう。ほんとに好きだったのは、S・Tだったけど諦めて、この人なら信じられそう、と思って決めたのに、裏切られてたんだ。今もあの人と切れてはいないんだ。Y子の忠告も聞かないで、私と結婚し、あの人とも切らずにそのままなんだ。あの人の写真や思い出の記録もすべて、私の部屋に持ち込んでいるなんて、我慢できない)と、胸の中で,わめいていた。写真のあの人は実にきれいな人だった。あの人が気の毒なだけだ、憎んでも嫉妬してるつもりもない。あの人と結婚しなさいよ、と勧めたことが何度もあったのに、いざ結婚してしまうと、あの人とは完全に切れて欲しい、彼女との思い出の品を、私の部屋に入れないで欲しい。 まるで逆の思いに変わってるなんて、私、変だ、おかしいよ、私、どうか してる? でも〈ふたまた〉は、汚らわしい、許せない!

部屋へ着いても、まだ涙を流している私を、Mがそっと寄り添って言った。
「何がそんなに悲しいんだ。僕のこと?」

私はこっくり頷くと、出たしゃがれ声は、「別れましょう!」 だった。   これを言おうと決めていたのだ。

「え?  どうして?  何が原因なんだ?」

「・・Y子さんの手紙が落ちてきて、読んだ。私との結婚は、反対されて たんだね。Tさんとは今も切れていないし、写真や日記や手紙も、私の部屋にある。Tさんとずっと続いてたんだね。そんな人、信じられない。もう  いやだ!」

その時、Mがいつものように、きっぱり、すっきり釈明してくれていれば、涙は収まったかも知れないのに、彼は口ごもったみたいに、何も抗弁しな かった。ほんとにTさんと続いているんだ。私と式を挙げた後の今も!と、確信しながら、でも嘘はつけない、正直な人なんだ、とは思えた。私の入院先の病室に毎日見舞いに来て、退院後もほぼ途切れることなく、電話連絡やアパートまで訪ね続けてくれていたのに、それでもTさんと続けることも、してたのかな? それほどに切るに切れない人ではあったということかな。 やっぱり私が身を引くべきだった。欠点だらけの私なんかより・・。

その夜は、背を向けたまま、眠ることになった。

その後、いつの間にか、棚の上の箱や書類は始末されていた。彼のメモ日記の、あちこちがちぎり取られていた。残ってる部分だけ見ても、彼はTさんのことで、悩み抜いていたことが窺えた。私がS・Tへの思いを、むりやり閉ざしたと同じように、Mも許せない彼女の過去についての、何かがあり、それが大きなことだったのかも、と察せられた。(例えば、離婚して、子を婚家先に置いて来たとか?  もっと違うかな? ・・)

私には、もう一度、S・Tに会いたい思いが強く強く湧き上がっていた。

















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