八章(7)楽しい事・苦手な事
私の風邪がおさまり、Mの図面に従って、大きな本箱を作っている最中に、ドアをノックする音がした。荷物の配達人が戸口に来ていた。
「ご注文のウスとキネをお届けに参りましたが、どこへ置きましょうか。 2階へはちょっと運べないですね」
え? ウスとキネ? 驚く私に、Mは嬉しそうに、現物を見てみよう、と私を誘って、階段を下りた。大の大人2人がかりで、ミニトラックから下ろしたばかりらしい。全体をおおっていたムシロのようなものが、はがれている。
「これは重すぎるが、何だろうかと、悪いけど、のぞいて見たんですよ。花を生ける大型の花瓶かとも思ったが、キネがついてるから、餅つき用のウスらしい、とわかったけど、こりゃ重かったですねぇ」と配達人が言った。
Mは階段下の隙間を指さして、ここへ入れて下さい、と頼んだ。2人の配達員が、必死で転がすようにして、そこへ持ち込んだ。この様子を見ていた、アパートの裏手の親父さんが、わざわざ覗きに来て、「餅つき用の道具一式だ。これがあれば、餅つき会ができるな」と嬉しそうに言った。ふだん話したこともない人だったが、Mは「そうしましょう、楽しみだな」とすぐに受けて言った。
「男は結婚したら、餅つきの一式を買っておくものと、思ってたもので、 実家の山梨の本家に頼んでおいたんですよ」と。
今年の年末には、実際に第1回目の〈餅つき会〉を開く約束を、佐藤という裏手のタクシーの運転士と名乗った、その人と交わしていた。
本箱の方は3日がかりで、天井まで届きそうな、巨大なものが出来上がり、ダンボール箱の中の本やノート類が、どんどん納められていった。
やっと部屋が部屋らしく落着いてきて、散歩に出よう、と2人でレコーダーをそれぞれに持って、近くの細い川の土手沿いに、のんびりと歩いた。白黒まだらの牛が1頭、土手沿いの草を食べている傍らを、笛で合奏しながら 歩いて行くのは、楽しいものだった。牛はきっと喜んでたと思う。散歩は 毎日のように、近辺の林を歩いたり、深大寺の森へも出かけて行ったりも した。
私が一番困った時間というのが、食事作りだった。朝寝した日でも、1日
3食は必ず食べたがるMなので、妹の文子が作っていたあれこれを、思い出しながら、なんとか作ってみるのだが、「また食べるの!」と言いたくなるくらい献立が苦手だった。これは何とかしなくては、と「お料理家計簿」というのを買い求め、以来、その中の〈今日の献立〉を参考にしたり、ラジオを聞いていて,料理の話が出て来ると、メモをするようになった。
それからは料理ノートが何冊もたまるほど、書き連ねるようになり、メモ用紙も何百枚とあるほど残っている。それでも未だに、料理は苦手意識を脱することはできていない。覚え込もうとはせず、作るたびにレシピカードを取り出して、見ながらやる癖がついてるせいだと思っているけど、私の頭の中は、別種のことでいっぱいで、例えば、思いついた物語のプロットを追っていたり、次に何を読もうとか、授業のこととかでいっぱいだから、苦手な 生活のことは、後回しにしないと頭がパンクするよ、と思うせいの方が大きかった。
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