見出し画像

(6) つながる!

その時、コツコツ、ドアをたたく音がした。

「すみません、隣のへやの者ですが・・」

男の人の声がした。

雪子さんは立ち上がると、壁づたいに玄関へ行き、ドアをあけた。

「先程から、ピアノの音がしたものだから・・」
「ごめんなさい、勉強をしてらしたのね。おじゃましてしまって・・」

学生らしいその人は、頭をかいて赤くなった。

「いえ、壁に耳を当てて聴いていました。あんまりいい音がしたもんで。  あの、へんなお願いですけど、今の曲、録音せてもらえませんか」

芳子ははっとして、またおどろきの目を見張った。私のピアノが、この人の心も動かした。いや、このピアノのせいなのだ。丸みをおびた温かな音色が、誰の耳にも快いのだ。

「どうなさる? あなた」

と、聞かれて、芳子はドアの外の暗さが目に入った。パパが心配してる  頃だ。

「この次ならいいですけど、今日はもう帰らないと。私の家は学校のコブシの木の前の2軒目です」

言いかけて、雪子さんにはコブシの花が目印にはならないことに気づいた。

雪子さんが返事を決めてくれた。

「明日は、連休でもあるし、明日の午後に空いてたら、おふたりともいらっしゃい。今日の予定だった人に、あす9時半の約束をしましたから、そう、午後2時にでもしましょうか」

芳子はうなずいた。学生も嬉しそうに、お願いしますと頭を下げた。

「うれしいわ。弾き手と聞き手が同時に見つかるなんて・・」

「ぼくもうれしいです。レコードもステレオも買えないから、気に入った曲だけ、ラジオからテープに集めているんです。隣にこんないい音のピアノがあるなんて、知らなかったなあ」

「静かに、おとなしく暮してましたものね。お隣なのに、口もきかずに」
と、雪子さんが笑った。

「よかった。ぼくも話す人がいなくて、つまんなかったです。じゃ、厚かましいですけど、お願いします、あした。それと、これからもよろしく。  ぼく林次郎です」

学生ははずむように言って、ぺこりと頭を下げると、帰って行った。

雪子さんが吐息をつくようにつぶやきながら、ピアノを振り返った。

「あのピアノのおかげね。父に感謝、感謝だわ」

それから、ふっと芳子を見て、思い出し笑いをして言った。

「忘れてた、あのピーマンと歯ブラシと石鹸のおかげも、大きいわ。あなたが届けてくれたお気持ちが、ほんとに有り難かった・・」

そう言いながら、雪子さんは深々と芳子に頭をさげた。

芳子も私こそありがとう、と胸につぶやきつつ頭を深く下げて、外に出た。

宵の温かさが、芳子を包んだ。あふれそうな思いが、胸の底から突き上げてきて、芳子は涙ぐんでいた。

あの人、30年もひとりぼっちで生きてきたんだ、目も見えないままで。 なんということだろう。でも、あの明るさと強さはどこからくるのだろう。

アパートの窓のひとつに、かくされていた、ひとりの人の人生を、垣間見た思いだった。今度悦子も誘って行こう。何度でも出かけて行くわ。そして、ピアノを弾かせてもらおう! こんなに近いのだもの。

ピアニスト志望の悦子なら、『亜麻色の髪の乙女』をきっと弾いてくれる だろう。悦子は今日の演奏会のトリを務めて、ショパンの『幻想即興曲』を見事に弾きこなし、芳子は感服感動してしまった。そのあとのアンコール曲として弾いた『亜麻色の髪の乙女』を、また弾いてくれるわ。お隣のあの 林次郎さんが、テープに入れさせて、と頼みに来るだろう。雪子さんをもっともっと笑わせて、楽しませてあげられるわ。

ほろり。また目の前に落ちてきた。夜目にも白いコブシの花びらだ。咲き 残った花が、そこここに、大きく満開に盛り上がっている。

水盤に浮かべて、ママに見せてあげよう。集めていた花房を思い出した。  玄関先に置いたままで、しおれてないかな。

パパったら、まだ眠ってるみたい。家はひっそりと暗かった。芳子はカギをあけ、灯をつけると、ドアを開けたまま、コブシの花びらを両手一杯に持って、下駄箱の上にそっと置き、ドアを閉めた。

ママは汗だくで、おじいさんの入浴の世話を済ませて、食事をさせている 頃 かしら。ママみたいなボランティアになれるかしら、わたし、と芳子は考えこんで、頭をふった。まずは着がえをして、水盤に花を浮かべて、それから、夕飯のしたくをしなくては。これが今日の私のボランティアのひとつかな? ちがうな、これは娘としての、お手伝いのひとつ !
                              [終]

(次の長編の前に、数編『雑記メモ』を載せます。ツイッターには長すぎて!)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?