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(私のエピソード集・25)ノラさん

四月半ばに転入してきたセーラー服の野田さんが、〈ノラさん〉と呼ばれるようになったのは、私が「野田さん」を言い損ねて、皆にどっと笑われたのが始まりだった。茶っぽい髪を太いお下げに編んで、色白の血色のいい頬にえくぼが浮かぶ。ふっくらして大柄で、自由に生きてる感じがあって、その呼び名はよく似合っていた。

彼女は授業中は、私の隣でたいてい居眠りしていて、当てられると「わかりません」しか言わないのだが、休み時間になると、とたんに生き生きとおしゃべりになる。

授業中の不首尾など、どこ吹く風で、よく将来の夢の話をした。「女優になりたいの、きれいな人だけが、女優になるのは変だよ。太って大きい女優もいないと、映画はとれないよ。だから、私がなるの」と。周りに数人集まってきて、面白がる。

ジェットパイロットや科学者にもなりたがったが、一番長く続いて、一番大きな夢だったのは「ヨットを買って、太平洋をひとりで渡って、アメリカへ行くこと」だった。「10万円あったらなあ。3万で古いのを買って、2万で修理して、1万でパリッとした上下服買うの。残り4万で食料と備品ね。アメリカへ着いたら、皿洗いでも何でもする。私は元気だから、何でもやれる自信ある。英語ぺらぺらで戻ったら、教えてあげる。高校卒業するまでに、英語はマスターしとかないと」

と、まくしたてるくせに、授業が始まると、こっくりが始まる。隣に座る私は、気になってならなかった。ノラさんの夢の話には、私たちへの〈みやげ物リスト〉まで入っていた。私には香り苦手なのに〈フランスの香水〉友だちそれぞれに〈外国製万年筆〉〈ネックレス〉〈最新のにきびとり特効薬〉など・・。

その彼女が、私の住まいから間近い、市営住宅を出てくる姿に初めて気づいたのは、7月初めのことだ。驚いて声をかけ、二人そろって登校した。それからは、彼女を迎えに立ち寄るようになり、彼女を待って、何度か遅刻にもなったが、行き帰りの彼女の話に、聞きほれたものだ。

彼女はそれまで、部屋が10以上あり、広い庭のある、大きなお屋敷に住んでいたそうだ。彼女専用の花壇や温室もあった。真冬にキュウリやイチゴを実らせたり、人工授精も試したりして、品評会で賞をもらったこともある。

カエルの解剖をするのが得意だった。麻酔をかけ、ハサミで腹を切って、ピンセットで内臓をつまんだり移動させたり、面白いよ、と彼女は目を輝かせる。終わると針で縫い合わせて、たんぼに戻してやる。あの家のまわりの田んぼには、おなかに縫い目のあるカエルが、たくさん見つかるよ、だって。

そんな楽しい生活が続いていたのに、今年に入って、激変する出来事がつぎつぎと起こった。派手好きで、放浪癖のある実業家の父親が、屋敷と土地をすべて抵当に入れて、借金を山と残して、若い女といなくなってしまった。

そのため、多くの借金取りが現れ、何もかも奪われて、母と兄妹の5人家族は、今の市営住宅に、やっと移り住んだ。

母上は小柄で体が弱いのに、市役所の下働きをして、ぐったりして帰ってくる。それを見るたびに、父が憎らしくてたまらなくなる。

弟と妹がいるので、彼女は夕食を作り、洗濯、掃除、買い物など家事を手伝っていた。高3の兄がアルバイトに写真業を始め、彼女は夜中まで兄の手伝いもしていた。授業中に眠いのは、ムリもなかった。

私が新調の制服を着始めた秋、ノラさん宅の事情は、さらに悪化していた。母上が倒れ、寝込んでいたし、兄は一学期で高校中退して、街中で写真屋を始めていた。ノラさんは店番を手伝うようになり、いっしょに帰れなくなった。教室での笑顔も話も途絶えていた。

ある日、珍しくいっしょになった帰り道で、「死にたいって、思ったことある?」と彼女が訊いてきた。え? と驚いたが、考えたことはあるよ、というと「じゃ、今度の冬にお弁当を持って、山奥へ行こう。雪に埋もれて死ぬのは、きれいよ」と言った。

死にに行く人が、弁当を持って行くの? と思ったが、黙って聞いていると、近所の女の人が、アドルムという薬を飲んで、自殺未遂をした話を聞いて、今薬をためているのだと。私は不安になったが、そう口に出してみることで、彼女は気持ちを発散していたのか、それきりになった。

またある日、泣いた跡の残る顔で教室に現れ、どうしたの、と訊いてみると、父親が前夜戻ってきたのだという。女とは別れ、持ち金を使い果たして、やっと家族を探し当てて来たのだと。

でも、彼女は絶対に父親を許さず、出て行かないなら、自分が出て行く、と宣言して、県道を町へと歩き続けていたら、父親が自転車で追いかけてきて、悪かった、自分が出て行く、と言ったので、家に帰ることにした。父親はほんとうに出て行ったそうだ。 

その後、母上の病の床は長引き、兄の写真店は、ほんの数ヶ月で赤字のため閉店となった。弟と妹は、広島の親戚に預けられた上に、ノラさん自身が、肋膜炎で倒れた。休学届けを出し、お別れ会もないまま、冬休み前に姿を消してしまった。ほんの8ヶ月ほどのクラスメートだったが、私には忘れがたい印象を残した友だった。

市営住宅の脇の坂道を、二人で家へと向かいながら、ノラさんはよくつぶやいていた。「いいな、いいお父さんがいて」と、私を羨むのだ。

夏休みに彼女は、我が家のミシンを、たびたび借りに来ていて、にこにこ顔で迎える私の父を、何度も目にしていた。たしかに、ノラさんの大変さとくらべれば、私の一家8人そろった平凡な毎日は、不満だらけの母だとしても、幸せな暮らしと言えるのだと、私自身もひそかに感じ始めていた。

年が明けて3月、坂道でノラさんに久しぶりに出会った。少しやせて、赤いセーターを着て、赤い日傘をさした彼女は、前よりもずっときれいで、輝いて見えた。

「病気はほぼ治って、広島の伯父さんの家に、お世話になってるの。高校は退学したけど、今近所の外人に会話を習ってる。あなたは大学へ行くよね? 私は東京の、もう一人の伯父さんのところから、YWCAに通って、通訳になるつもりよ。あなたも東京へいらっしゃいよ。あちらで会いましょう」

ほんとにいつか会いましょうね、と私たちは握手しあった。ノラさんは最後に優しい目をして、言い足した。「実は今、父があの家にいるの。前には大喧嘩したけど、母には父が必要だから、許してあげたの」

そう言うと、ノラさんは赤い日傘をくるくる回しながら、坂道から父母の待つ市営住宅へ、ゆったりと下って行った。

その3月末に、私の一家は倉敷の町中へ引っ越した。長兄夫妻が電気店を成功させ、新築の家を建て、同居することになったのだ。ノラさんとは、二度と会えないままとなった。

それきり半世紀以上が経ってしまった。ノラさんのことだもの、きっとその後も夢を追い続け、明るくたくましく生きているにちがいない。

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