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7章-(2) 『アランデル城』へ

●午後2時、アランデル城の前へ到着。歩いていた間、炒り豆でお腹をなだめていたものの、空腹だった。グループに分れて、遅い昼食となり、私たち「だんろ」組は、パン屋であれこれ買って、アラン川(サトクリフの『運命の騎士』中では、オーレ川として登場) のほとりで食べた。                          ハムサンド・チーズサンド・バケット・パイ各種とジュースで、何もかもが実においしかった。

食べ終えてから、OさんとYさんと3人で、果物を買いに町を駆け回った。何人もの人に尋ねながら果物屋を探したが、道が変に入り組んでいて、問われた人も説明がしにくそうだった。ともかく適当に店を見つけて、チェリーとリンゴと水だけ買った。

●3時に「アランデル城」へ入る。ローズマリー・サトクリフの『運命の騎士』の冒頭から登場する城だ。
「犬飼いの孤児ランダルが、門楼の屋根に腹ばいになって、アランデルの新しい城主の到着を見下ろしている。・・・門を城主が見上げたその時、ランダルは食いかけのイチジクの実を落してしまい、城主の馬の鼻に命中、馬は暴れ大混乱に・・・」それがきっかけで、ランダルはある騎士に仕えることとなり、後に「騎士」から「領主」にまで成長していく。


アランデル城(城主在の時、旗で示す)

この物語は、サトクリフが「アランデル城」と「ブランバー城」の2つの城を舞台に、11世紀頃の時代の歴史を背景に、歴史創作物語としたもので、『グリンノウ・・』や『トムは真夜中の庭で』のように、現実の家や庭を舞台にした作品とは違って、当時をしのべるものはほとんどない。

◆◆ この城の歴史と、城主たちの運命には、実に苛烈なものがあったのだとわかった。まず、城と建物について、英文パンフから一部拾ってみることに・・。

◎ 現在の城は、南正面の11~12世紀まで遡る部分も残っているが、大体は18~19世紀に大幅に修復され、代々修復はつづけられたが、15代公爵の「切り石積み」で、終了となった。

◎「天守閣」は1138年に人工の丘の上に建てられたが、窓はなく、南側に  ノルマン様式の大きな戸口がある。中央の床下には敵の包囲に備えて「食糧貯蔵室」がある。階段を上ると壁道に出るが、四方に素晴らしい景色が見える。南側に海岸、西に町と寺院を、北に公園、東には川沿いにアラン渓谷を見渡せる。

◎「チャペル」は城中で最も立派なヴィクトリア風の部屋で、19世紀にイギリスでカトリックが復興した時の、最も完全な記念碑である。

◎「バロンズ・ホール」=貴族のホール →どっしりした見事な作りの大広間。長さ約40m、高さ15mある。ステンドグラスは12~19世紀のフィッツアラン・ハワード家の歴史を著している。ホール上部には、肖像画がずらりと掛けてある。

◎「食堂」→18世紀には、ここは一族のチャペルだった。11代目公爵はしきたり通りには神事を行わなわず、1795年にチャペルを食堂に改築した。大きなステンドグラスに、ソロモンにもてなされているシバの女王を飾った。しかし、1846年にヴィクトリア女王がこの城をご訪問の際に、英国国教会派の女王に不快に思われてはと、このステンドグラスを取り外した。

●● ガラスケースの中には、アランデル城で最も重要な宝物、スコットランドのメアリー女王に関する収集品が展示されていた。4代目のノーフォーク公爵は1572年、エリザベス1世により、斬首された。メアリーとの婚約がイギリス王位そのものを、奪いかねない恐れがあったためである。

「金とエナメルのロザリオ」は、Fortheringhay 城でメアリーが処刑された時、彼女の遺言によって、アランデルの伯爵夫人に贈られたもの。

「金の十字架」はメアリー・ハワード(=8,9代目ノーフォーク郷の母)が、1996年にパリから持ち帰った物。それはメアリー女王がウェストミンスターの最後の修道院長であった フェッケナムに与えたものと言われている。彼は旧教徒ゆえに1560~1584年までロンドン塔に幽閉されていた。

「祈祷書」はメアリーが1568年ラングサイドの戦いの際に、ヘリーズ郷の屋敷に避難し、彼に与えたもの。

◆◆◆「絵画画廊」には、詩人のサーリイ郷(1517-1547)の肖像画がある。3代目ノーフォーク公爵の長男で、ヘンリー8世の治世の末頃に、でっちあげの反逆罪で不当にも処刑された。彼は勇敢な武士であり、すぐれた詩人でもあった。彼はトマス・ワイアットと共に、イタリアのソネット形式をイギリスにもたらし「無韻詩」を新しく生み出した。彼の肖像画の両脇に盾を持った像が立っているのは、彼が王族の出(左側は父方のエドワード一世、右側は母方のエドワード3世)の血を引く者であることを示している。

◎「図書室」→ 11代目公爵の尽力で存続。英国で最も重要な1800年頃のゴチック様式のへやの1つ。長さ36mあり、ホンデュラスのマホガニーで造られ、書物はカトリックの歴史に関する原稿や印刷物が豊富にある。

◎「フィッツアラン・チャペル」→ 1380年に建てられた私的なカトリック教会。最も重要なのは、15~20世紀までのアランデルの伯爵とノーフォーク公爵の歴代の墓石や祈念像がずらりとあることである。

◎「北東の門」→ 中庭から外へ出るこの門は、アランデル城を完成させる最後の門であった。1906年にジョン・モーリーによってデザインされた。両脇にはノーフォーク家の紋章の獣であるハワード・ライオンとフィッツァラン馬の石像がある。

◆◆ 代々がカトリック教の領主たちであり、メアリー女王との婚約もその関わりであったが、ヘンリー8世以降、イギリス国教会が新しく国教となったため、城主たちも翻弄されていたのだとわかった。


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