九章(2)誕生したのは男女!
翌日、Mが深大寺から飛ぶようにして来てくれた。義兄は夕べがよほど 遅かったらしく、別の部屋で眠ったままで、挨拶をする暇もなく、姉と 子どもたちにお別れをした。Mが子ども達それぞれに、お小遣いを上げて くれた。
アパートに帰るよりも先に、吉祥寺からタクシーで、深大寺近くの産院に 駆けつけた。
医師は私の腹囲を測ってみて、
「あれ? 僕の計算違いだったろうか? これだと10ヶ月の腹囲だなあ」 と言い、その後、診察をして、
「お、これはすぐにも出産になるぞ。だいぶ開いている」
と言って、看護師である妻に、準備をするように言った。
「私、まだ何にも用意をしてないんですけど。3月末が予定日と言われた ので、今日から2ヶ月間に、オムツとか産着とか縫い物したり、買物したりするつもりでした」
「もう無理だ。必要な品は、ご主人に買ってきてもらえばいい」
と先生に言われ、看護師に何を買うか教わって、Mが買物に走った。
その日の夕暮れ、男の赤ん坊が生まれた時の、先生の驚きようと言ったら!
「えっ? こんなに小さい! 双子か? 3つ子か? 塊があと2つある!」
男の子はすぐに大きな声を上げて泣いた。
私こそびっくり仰天だった。陣痛はものすごい痛みを伴うものだと、聞いていたが、私にはほとんどそんな痛みはなかったのだ。軽い痛みが1時間から少しずつ狭まりながら、続いていたくらいだけだった。
「あっ、もう1人は女の子だっ! だいじょうぶか、これは、泣かんぞ」
先生は、声を上げながら、女の子の背をたたいたり、揺さぶったりして、 ようやく弱々しい泣き声が聞こえた。
「双生児だった! もうひとつの塊は胎盤だ。2人分を 養うための、大きな胎盤だったんだ。実は、僕はこの年になるまで、双生児を取り上げたことがないんだ。これが、初めてだよ。こんなに小さくては、保育箱にいれる手続きと、預け先を探さなくては」
と、50代らしい先生は、すぐに看護師に赤子の預け先を電話で問い合わせさせた。この小さな産院には、保育箱など備わっていないのだ。
先生自身は私の血圧を測って、さけんだ。
「上が90しかない! これは参った! お産をすれば、誰だって、血圧は 上がるのに、この低さじゃ危ない。おい、さらし布を探してくれ」
と看護師にまた頼み、持ってこさせると、私のお腹にぐるぐる巻きに一反のさらしを巻き付けた。
「こうしておけば、大出血は防げるだろう」
そこへ買物を済ませて戻って来たMが、男女の双生児と聞かされて、あまりに驚いてしまって、大喜びし損ね、戸惑った表情になっていた。
先生は、すぐにも「未熟児届」を都に申請するために、名前をまずつけよ、と言う。そこで2人で相談して、予定していた通りにKタロウとWカナと して申請し、中野にある医院の「保育箱」へ、一刻も早く、運ばれることになった。男の子は1700グラム、女の子は1600グラムの未熟児だった。
Mは富士宮にいる母と姉に、電話で2人の誕生を伝えた。そして、オムツがすぐにも160枚必要なのだ、と医師に言われた通りを伝えると、義姉が 急いで浴衣地などを用意して、駆けつけてくれることになった。母の方は 驚くよりも、双子だなんて恥ずかしい、親戚の人や友人には言いたくない、と最初は渋ったらしかった。(でも、実際に赤ん坊の顔を見て後は、めろめろで自慢の孫として、大事にしてくれる祖母になってくれたが・・)
義姉はすぐに上京してくると、産院に泊っている私の枕元で、大変な勢いでオムツを手縫いしてくれた。そして、私の看病も、下の世話までしてくれて恩返ししなくては、と感謝でいっぱいだった。
13組のクラスからは、何通も手紙が届いて、私の双生児誕生のことが 伝わっているのだと、嬉しかった。先生、名前はどうなりましたか?と、色々な名前の候補を挙げてくれる子が多かった。
その産院にかなり長く入院の形になって、お世話になった。お乳があふれるほど出るのを、遠い中野のガラス箱にいる我が子に、飲ませられない。私は寝たまま、タオルでくるんだ氷を両胸にあてがって冷やし,乳を止めることしかできなかった。当時は母乳よりも、栄養価の高い粉乳を勧める医者が、多かった頃だったし、出る乳を凍らせて、遠いガラス箱まで運んで飲ませる手立てなどは、考えもしない時代だった。
Mは大学へ行くときは、小型のスーツケースに洗ったオムツを80枚入れて出かけ、帰りは中野のガラス箱のある産院から、汚れたオムツを持ち帰ってくる。それを義姉が毎日洗ってくれるのだった。
先生にこう言われた。
「2500グラムになったら、家に戻ってくるだろうが、女の子の方は、危ないかもしれない。歩くのも1年半経っても歩かないようなら、脳性マヒかもしれない。未熟児はそういう危険性があるから」ということだった。
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