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ツナギ6章(1)明けて4月・・

前号まで:洞で暮す野毛村12軒の人々と、ツナギとじっちゃたち。山向こうの八木村から米と布を、海辺の村から塩と魚と船を得た。カジヤが海辺の鍛冶場で鉄斧と作って寄こし、村再建の木の切り出しが捗る。ツナギはじっちゃに日を数える仕事を教わる。冬越しをして・・。

チッチッ、ツピーツピーと鳥の鳴き声がしている。起きなくては!ツナギは毎朝、起き出すには勇気がいる。だるいのだ。腹は空きすぎて、感覚もにぶくなっている。燃料のつもりの松かさの実を、皆でほじくって食べ、乾いて捨てるはずの、サトイモの葉のアクをさらして食べることまでしたが、食い物はもうあらかた食べ尽くしてしまったようだ。

タネ用に残しておいた米やダイズを少しづつ使っているらしく、当番の母親たちが囁きあっていたり、カメの底をさらう音を、ツナギは何度も聞いた。

最後に残っていた1の池の生きた魚を少しづつ取り出して、薄いサトイモ汁や豆汁、米汁に刻みこんでいる。あの大揺れの日、じっちゃが谷川で獲ってきて、ツナギが池にぶちこんだあの魚だ。あれがなくなってしまったら、どうするんだろう・・。
オサたちにもわかっているはずだが、起き出せないでいる。

壁近くのワラぶとんから、ツナギはそうっと抜け出した。枕もとの棒を掴み、それを支えにふらつく足を踏みしめる。壁沿いに並んだワラぶとんの中のサブや他の者たちは、まだ動く気配はない。炉の近くで寝ているじっちゃは、近頃は臥せっている方が多い。

まずは炉の火に消し炭を添える。最近では、ツナギは炉の火の守番も任されていた。ツナギはかすむ目をこらして、ワラぶとんの隙間をぬうと、2つの広間を抜けた。こもった臭いが鼻をつく。寝ついている者が多く、空気がよどんでしまっている。奥の大岩の裏へと、なんとかもぐりこんだ。

床にへたりこむと、床の白石がぼんやり見えた。手探りで、今日は3列目が満杯だとわかった。すべてを元のカゴに戻せる日だ。ぼんやりと思い出し、1個だけ左の小カゴに移した。小カゴの中では、3個の白石が手に触れた。

ああ、3ヶ月が過ぎたか! なんという3ヶ月だったことか! いつもの年の何倍も濃く長く重い日々だった。

もうろうとした頭に、遠い思い出のように、次々と場面が浮かんでは消える。正月の祝いの日に、ゲンやシオヤ、シゲたちの婚礼の式をした。米の炊きこみ飯に、魚のごちそうが出た。あの頃は、まだあんなご馳走が食べられたのだ。

祝われる当人たちは新しい服をもらい、全員にわら沓が配られた。が、式 とは名ばかりで、新しい夫婦たちの暮らしはほとんど変わりなかった。ただ ヤエはゲンの一族に加わり、シオヤはナメシヤの娘を一家に加えただけだった。大人たちは、八木村からの酒を分け合って、大いに笑った。     誰も皆、1歳づつ年を重ねた日だった。

ウオヤは山を越えて八木村の妻子の元へ行ったまま、冬越しをした。カジヤは海辺の上芦尾村のカジヤの仕事場に残って、鉄の農具を作り続け、結局、戻らなかった。

最初は雪の中でも、モッコヤを中心に木を掘り出したり、カリヤたちは狩に出て、ウサギやシカやイノシシ、ムササビ、キジなどの獲物を持ち帰ったりと、元気だった。

2月の初めには、便所用の穴を3つ、掘り直した。じっちゃは炉の脇で、稲ワラとホウキグサやススキを組み合わせて、敷物を作り続け、ツナギたちにも教えた。

日に2回の食事の後で、どこに新しい村作りをするか、活発な意見が出された。結局、ゲンがいつか言った、高台の木々がまばらな森を切り開くことになった。窯場にいるツナギの伯父たちの瓶の材料である、粘土層は残す了解を得て、その奥の左手の森を開くことになった。

その森あたりも粘土質ではあった。春になってカジヤがまた鉄斧を持ち帰ったら、始めることにしよう、ということになっていた。

しかし、日が経つにつれ食糧は減り、皆の気力が萎えていった。3月に入った頃には、寒さと空腹続きで、寝つく者が出始めた。何が悪かったか、ひとりが腹下しになると、はやり病のようにつぎつぎと倒れた。今もそれは尾を引いている。

ツナギやサブたち元気な若者組も、熱と下痢に悩まされ、げっそりとやせた。しまいには、オサを初め、頑強なモッコヤやヤマジたちまでもそうなった。便所まで行けずに、洞の中でもらす子も出た。そのせいで、洞の中は息苦しいほど、空気が悪くなった。

じっちゃやヤマジのババサの提案で、入り口近くにカメを置いて代用したり、晴れた日に、ワラぶとんを干したり掃除したり、空気の入れ替えをしたりと、親たちはよろけながらも手を打った。が、病人が多すぎて、水汲みする子たちも寝付いていて、代わりに雪を溶かして水にしていたが、人手が足りず、やっと湯をわかすだけ、干し柿をひとつ配るだけの日もあり、ますます皆が弱った。

狩は中止、ちょっとした食糧探しも、できなくなった。ツナギはそれでも、なんとか日付けの石置きだけは、ひっそりとこっそりとがんばり続けた。

子どもたちは、雪の日も外遊びで元気にしていたのに、3のカリヤの8歳の男児が、岩肌に積もった雪の上で遊ぶうち、滑り落ちて岩棚に頭をぶつけて死んでから、母親たちは外遊びを、洞のすぐ外しか許さなくなった。更に、流行り病の最中にもうひとり、カジヤのひとり娘が亡くなり、海辺にいる夫のカジヤに知らせることもできず、気丈な母親が打ちのめされていた。

ヤマジのババサが、年のわりに病に強いことが、何よりの救いだった。毎朝炉の火で、湯をわかし、薬草を沸かして皆に飲ませ、苦いと不評ながら、皆をなんとかここまで持ち堪えさせてきたのだ。

寝ついていたトナリのババが、3月半ば過ぎに亡くなって、今年に入って3度目の弔いとなった。が、葬るのも難儀で、トナリとオサと2人のカリヤが、力を振りしぼって、カリヤのババの墓の隣に、浅い穴を掘った。大揺れ以後の墓は、3人の子 (キク・カリヤの息子・カジヤの娘) とババ2人で、5つ並ぶことになった。

じっちゃとヤマジのババサは、洞の入り口に座って、運ばれて行くトナリのババを、手を合わせて見送った。歩ける数人が送りに出たが、ツナギも含め残りの者たちは、じっちゃの後ろに並んで、手を合わせた。

オサたちは葬儀の後、へたばって寝ついてしまった。

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