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共感されたいわけじゃないから/正解のある解釈をしたくない

//「わかる」という恐ろしい言葉がある。何かの話の相槌として使用された場合、多くは理解か共感、あるいはその両方の意を示す単語だ。

//とある後輩と話をしていた時、[話の構造に関しては十分に理解が及んだもののそこに一切の共感が発生しなかった]ことについて「理解できない」と形容し、「今とても理解してくれていたじゃないですか」と窘められたことがある。あの時は、自分で自分にひどく驚いた。確かに、理解はできている。できなかったのは、理解ではなく共感だ。僕はその時はじめて、自分が「理解する」という単語に誤った概念を適用していることを自覚したのだった。

//僕はずっと、人前で自分語りをすることについて、「自分を理解して欲しい」からだと思っていた。更に言えば、「自分と同じように感じて欲しい、わかってもらって安心したい」のだと思い込んでいた。もしくは実際にそう考えていたのかもしれない。他者依存傾向の強かった頃は、他者の共感こそが自分の肯定感を最も高めてくれていたような気さえする。

//でも最近、そうではない気がしてきた。多分僕が欲しいのは、共感じゃなくて理解。僕はきっと、安易に「わかる」って言って肩を組んで欲しいんじゃなくて、趣旨を理解してもらったうえで自分とは異なる脳味噌を持つ他人がどう感じるかが知りたいのだ。

//自分で言うのもなんだけれど、僕がこんな初歩的な勘違いをしていたのも一定仕方のない部分はあると思う。理解より、共感の方が簡単だからだ。共感できることでないと理解ができない(もしくはそうと誤解している)人間は多い。だから、理解してもらうには共感してもらえなければいけないのだと、僕も勘違いしていたのだ。

//自分はつくづく面倒な人間だな、と思う。こんなにあちこちで活字をたれ流しにして、「隙自語」という単語がここまで合う人間も珍しいのではないか。でも、これを書き残していったからといって、僕はこの先にこのテキストを読む人間に共感されたいわけじゃない。自分のことを語るからといって、それに同調されたり肯定を返されたりしたいわけじゃない。僕はただ、僕の言葉が、体験が、感情が、まったくちがういきもののフィルターを通過していったとき、それらがどう捉えられていくかに並々ならぬ関心があるだけだ。


//僕が嫌でも宇宙へ行かなくなった理由のひとつに、『仲間内で正誤の存在する解釈を戦わせることを僕の脳は娯楽と認識できない』というものがある。顔も声も届かない一回こっきりの人間を相手取るならまだしも、前後の人間関係が存在する間柄でこのゲームをやるのは本当に至難の業だと思う。かといって解釈を戦わせることのない当該ゲームに魅力を感じるかと言われると、それはもう荘園脱出ゲームやってればよくないですか? という気持ちになってしまう。だから僕は宇宙に行くのを辞めたのだ。

//これは何もAm〇ng usに限った話ではない。僕は正解のあるものを解釈することそのものが嫌いだ。とくに芸術作品などに対しては、そういう感情が強く表に出ることがある。

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