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理想と発想、それから模範

好きなブログがある。こんな文章を書きたいなと思っている。でも残念ながらわたしには昔から、何かを作り出す能力がなかった。実際にあったこと、自分が思い感じたことをいかにも物語のように再構築することしかできなかった。
 それで失敗したこともある。わたしには常識がなかった。それで、今でもきちんと消化しきれないくらいの負を生み出したこともある。ある女はわたしにことばを綴る資格はないと切って捨てた。当然の帰結だ。それは『その一点』すら間違えなければ創作たり得たかもしれないけれどしかし、『そうでなければ』物語を動かす想像力を持てなかったのであるから、やはりわたしに才能自体は無いのだろう。
 けれど、だからといって、創作は何も無いところから何かを生み出せる人だけのものだと思っているわけではない。昔やっていた朝ドラで、トヨエツが何らかの感情を爆発させた主人公に「(それ以上は語らんでいい、)今の感情を漫画に描け」と言う様な感じのシーンがあったように記憶していて、彼の主張がその後否定されるような印象もなく、【事故】を引き摺っていたわたしは目から鱗が落ちた。あの朝ドラは史実的なモチーフをもたない完全オリジナルのもので、つまりあの台詞は本当に創作を仕事にしているプロが「創作者自身の感情を創作のリソースとするそれ自体は創作者としてよくあること」と認識しているという証拠に他ならないのではとわたしは考えた。
 もちろん、創作者によって創作が絶対的に人を害するものではあってはならない。しかし、創作とは無からの創出が可能なものにだけ許された特権的行為ではなく、それが絶対的妥当性を欠かない限り何をベースに創り出されても良いという考えが、ここにきて様々な実例と共にわたしの元へやってきていた。まだ消化には長く時間が掛かっているが、わたしは徐々にその考えを受け入れつつある。初めのうちは文体を構築するテストのようなものでしかない文章だったけれど、いつかはあれらの文章を真に自分のものとして綴れたら、そしてその頭の動きをベースにして、いつか本当にオリジナルの物語が書けたら、と思っている。

 ある一定の方向性の発信をして人に追従される立場にある人間を、わたしは「神様」と称している。身近な例だと、例えばかつて恋人は神様であったし、地上地下知名度を問わずアイドルも神様をやる職業だと思うし、最近ではある漫画を読んでホストみたいな職業もまさしく神様業そのものだなと思うようになった。
 もちろんわたしたち人間より高次の存在が確立されているのかもしれないという可能性の意味ではわたしは神さまの存在を信じていないわけではないけれど、最近になって、わたしは「人の神様」を信じるのには向いていないのだなという結論に至った。
 「神を信じれば救われる」というような言い回しは耳馴染みがいいものだとは思うが、実際に神様を信じて救済されることそのものはあまりないと思っている。少なくともわたしは、神様を信じることで「信じることそのものが」良い作用を生むことがあっても、「その神様を信じた結果」得られる本質的なメリットというのはあまりないように思っている。もちろんこれは個人の感想だが。
 世界を見回してみると神様適正が高い人間は度々世界に対しても強烈な存在感を発揮していて、映画周回やチケット販売のお話からクラファンについてまで最近何かと話題の彼もそのうちの一人だと思っている。彼の立ち回りは、聞き及ぶ限り「神様人間」としては結構賢い部類のようで、わたしの思うそのうちの画期的なもののひとつが「信者の顔を見るしぐさを提供してきっちり収益化している」ことだ。これは初めて聞いた時、本当にすごいと思った。
 これは体感なのでどの程度一般化可能なものかは不明だが、信者というものは信者でありながら往々にして「神様に自分を見てもらいたい」という自己顕示欲求を持つことが多い。アイドルや実況者のTwitterリプライ欄などを想像してほしいと言えば伝わるだろうか? 本人の発信する何かの単純な享受によってのみ成立しているはずの二者関係は、信者が「神様に見てもらいたい」という欲を出すことによって変貌する。その欲求を見ないふりをし続けていたわたしが敗走を余儀なくされることになったのを、既に御存知の方もいることだろう。
 そして神様人間にとって多くの場合、いくら信者のこの欲求が見えていても、信仰の強度を高めるためににこれに応じることにはリスクがある。信者たちに存在するこの欲求には際限がないからだ。この執着癖とも呼ぶべき人間の反応には不本意ながらわたし自身たいへん身に覚えがあり、そしてこれらの欲求が深度を増していくごとに本質的欲求から乖離していくものであることも分かっている。前向きに捉えればより強固な信仰を築く契機ともなりうるこの欲求は、扱いを一歩間違えると信者をつけあがらせる隙にもなってしまうのだ。信者たちのこの種の顕示欲求をどう処理するかは、ある意味神様業をやる人間にとって永遠の課題なのではないか。
 当該クリエイターがそこで取った手法が、「金を出せばそれだけで僕はあなたの顔を見ます」というビックリするくらいのド直球戦法だ。これ自体は、彼がまだ商売人という属性を持たない頃に獲得した知名度という位置エネルギーを換金するところから始まったような気はするので誰にでも真似できる芸当ではないとは思うのだが、強大な知名度がある人間はこれだけでも十分効率的に換金が出来るだろう。千佳がメテオラを落としまくればランク戦はそれだけで5~6点取れるだろうというのと理屈はだいたい同じである。千佳クラスのメテオラを喰らわずに撃ち落とせる人間は仮にいたとしてもボーダー全体で見ればひと握りだというのは、もうお判りの通りだ。
 もう1つ賢いなと思うのが、これをクラウドファンディングのリターンの中に組み込んだことである。最近はインターネット上で個人がサービスを提供するようなものも流行っているが、そうした商売に直結する形で出すのではなく、あくまで「僕を支援してくださる方の顔を僕は見ますよ」というていでやっている。これだけでも、実際に準備される対価が金額相応の設定であるかどうかというのは別として、「ただ寄付を黙って受け取るよりはリターンという形があるだけマシ」と言えなくもない。そもそもクラファン自体が「実際の利益とは別に、期待感にリソースをぶちこんで楽しむ」娯楽のような性質をしているのもあり、このスタンスで信者の顕示欲求を満たす代わりに収益を生み出すのは非常に賢い戦略であるともいえる。レオン・フェスティンガーの心理学実験がとくに有名だが、人間は投入リソースに対しての本質的釣果が渋いと認知を歪めて過剰適応を行ってしまうふしがあるので、実態としては設定は多少理不尽でも規模によってはそれでも需要が存在するということを身をもって示したのが彼の例だというわけだ。
 神様というのは徹底的に作用努力の仕事だ。偶像それ自身には作用努力を求められていないモデルもあるかもしれないが、その場合も多くはその構造をプロデュースする人間がいるか、あるいは本人に天賦の才があったりするため、作用努力なしに神様人間が存在し続けられるとは考えにくい。信者の例で出した「人に(それも自分より優れた人間に)自分の存在を気にかけて貰いたい、あわよくば承認されたい」と思う承認欲求自体は別段奇特なものではないとは思う。しかし、神様の作用努力に甘えているだけの人間が神様に顔を見てもらおうとするのは、神様が応じる分には勝手だろうが、神様からしてみればまったく割に合わないのでは無いだろうか。先述の例も含め、自分がやりたいかどうかは別としても、収益化してトントンだとすら思う。
 とはいえ、わたしだって「人に顔を見られて安心したい」という気持ちはいつだってある。思うに、その気持ちがあるのなら、むしろするべきは神様探しではなく、自分自身が神様になることなのだろう。

 大学三年生の冬、わたしは絵筆を折った
 理由は今思うと本当に大したことはない。ただ、わたしは自分が負けず嫌いであることを解っていて、努力でどうにか負けない戦いだけを視界に入れるように戦っていたのに、それは最後に劣等感に負けてしまったという、それだけのことだった。
 わたしの絵は愛だった。もともと視覚刺激を忠実に受け取ることが得意で、自分の好きなものの好きなところを大切に描写するあの時間がとても好きだった。何が間違っていたのかは分からない。ただ、絵筆を握って外の世界に立つには、あまりにもわたしは努力を知らなかった。
 もともと自己表現の手段としては文章の方が使い慣れているのはわかっていたので、文章が使えるのは良かったことだと思う。絵が描けようが何しようが、この言語化能力に一定の練度を持ったことで繋がった縁も今となっては何かしら存在するだろうと思うのもあり、それを捨ててまで絵が描ければよかったとは言わない。ただ、わたしにとって、絵はわたしがもっていないものの象徴だった。ずっと昔から。だからわたしは、わたしより絵画表現で評価される人間が、いつも羨ましい。
好きな漫画がある。というかわたしの理想の作家さんがいる。その絵画表現は、やりたいことをできる手段で実行しようとした結果で、ほとんどわたしのやりたいことに近かった。やりたい描写を、できる形で残して、できた漫画。わたしもそういう風に絵を描くことができればよかった。
 わたしは彼女がそこにたどり着くまでに費やした労力を知らないが、知らないなりにも垣間見える程度ですら労力を美術に費やしたためしはないし、だからこれはそう考えた時点ですでにただの「無い物ねだり」なのだろうなという直感はあった。今も、わたしに「絵」はない。でもその代わりに、「文章」はかなり書いてきた、と思う。別に文章の練度をあげようと思ったことはない。でも恐らく、文章を書いて読み返して、自分の書いてて気持ちのいい文章の癖に気づいたり気持ち悪い文章の癖に気づいたりして、それは少しはわたし自身の言語化能力を底上げするのに寄与したと思う。たぶん8年前よりはずっと、自分の書きたいものを書けている気がする。
 だから、持っていないものを全て欲しがる必要は無い。わたしは、わたし自身の心でこれがあったら心地よいなぁと思うものだけ手元に並べて置けば良かっただけなのだ。

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20時過ぎの報告会、単行本おめでとうございます。
まだ読んだことの無い方も、noteでいくつか読めるので、もしこの雰囲気が好きだったら是非買ってみて下さい。

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