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「いじめられていたから同世代が苦手」な話について、ネットで知り合った年上とばかり付き合っている僕が思うこと。


 今回のnoteは以下記事のpeingを読んでの考察になります。

※あくまで挙げられたpeingに端を発するものなので、筆者様の解釈には触れません。(マガジン部分は読まなくても本記事は読めます)


 結論から言うと、「小中学校でいじめられていたから・タメと歳下への苦手意識が死ぬほどある」という状況には、めちゃくちゃ共感しました。共感しすぎて死んでしまう。
 ただし、僕はそれが歳上を恋人に選びがちな傾向に現れていることには今まで気づいていませんでした。そして、そこについて考えてみたとき、この感情は決して『タメと歳下への苦手意識』ではありませんでした。
 では、その感情の正体とは何か?
 今回はその話をしてみたいと思います。

※今回はいじめに関する言及があります。苦手な方は閲覧をお控え下さい。




1.どんないじめられっ子だったか?

 小学校、中学校と僕はいじめに遭っていました。小学校の時は「慈悲としてあくまでコミュニティに残留させておきながら、友好的な中心人物達のだしとなる仲間外れ要員として扱う」もの、中学校の時は「あくまで遊びの延長と言い張れるラインまで侮蔑揶揄の対象とする」ものです。前者は当時当事者としてはあまりいじめだと思っていませんでしたが、後者はその後の人格や進路選択に大きな影響を及ぼしたものと認識していました。
 小学校の時のそれが「いじめに類する排斥行動」と気づくことになったのは、状況を遠巻きに見守るしかできなかったクラスメイトのひとりが見るに見かねて母親にタレコミを入れてくれたせいおかげです。

 僕の自分語りを何度かご覧頂いた方々にはお馴染みの言説とは思いますが、少なくとも高校入学以前の学齢期において、僕はいわゆる「アスペ」であったと判断しています。故に、学齢期の排斥行動において、その状況を作った人間(平たく言えば「いじめた側」)を咎める気は一切ありません。
 あれは「少数派に原因がある対人対立」であり、起きたことに対しては「音の出るおもちゃが落ちていたら音を鳴らしてみようと思うのがあの年の人間の正常な反応で、音の出るおもちゃであった方(=幼い自分)が悪い」と考えています。むしろ、当時の自分の行いを振り返れば、暴力・毀損行為に手を出さなかった理性的な当時の彼らを褒めたい気分ですらあるほどです。

 ただし、あくまでそれは「今となっては」の話であり。これらをいじめだと判断した母に『お前はいじめられていたんだ』という現実を突きつけられたことにより、僕は自分の不適合性を恐れるようになりました。
 僕にとって、「自分がいじめに遭っていた」というのは、「かつての自分が、ひどい排斥行動の的にされるに値する人間であった」ということの何よりもの証明であるのです。


2.なぜ「いじめの経験」が「同世代への恐怖」となってしまうのか?

 ここで言う「同世代への恐怖」というのは、厳密には「再び同世代の人間から排斥行動の対象とされることへの恐怖」でしょう。自分と出会った人間が、過去出会った人間と同様の排斥行動をするのではないか、という恐怖です。
 ある程度いじめを受けていることに自覚的で、かつその状況の回避を試みていた場合、回避に失敗してしまうとそもそも「同コミュニティの人間からどう思われているかが、自分からは全くわからない」ということになってしまいます。そもそも他人の真実すべてにアクセスすることは難しいため、事象としては当然のことです。しかし、その状況に辛い経験が紐つくとこの事実にも恐怖を覚えるようになってしまいます。
 僕はこれを「被解釈恐怖」と呼んでいます。


 ところで、同世代と言っていますが、なぜ質問主や僕は「同年齢及び歳下」の人間に対して被解釈恐怖を抱き、歳上の人間にはそれがないのでしょうか?
 質問主への詳細な聞き取りは叶わないためここからは僕の個人的な意見になりますが、これは「歳上にならある程度の落ち度は見逃してもらえるはずだが、同年齢や歳下には遅れを取れない」と僕自身が強く考えているせいだと思っています。

 恐らくですが、僕はもともとプライドが非常に高いです。そのため、自分が相対的に下に見られるということは、いじめ問題を抜きにしても僕にとっては非常に屈辱的なことでした。
 ところが、過去の対人交流について「明確にいじめとしか見て取れなかった」と第三者に証言されたことで、自分が無意識に見下していた(小中どちらも首謀格はあまり学業成績に秀でた人間ではありませんでした)人間に見下されていたことが明らかになります。これは僕にとってあまりにも衝撃的でした。この出来事によってより一層、僕は負けず嫌いとなってしまったのです。
 結果として、僕は高校時代頃から徐々に「自分よりあらゆる面で優れていて・自分を見下している可能性がある人間を遠ざけ、自分より幾分劣る点を孕む人間や自分を見下す恐れの少ない人間を周りに置く」ようになっていきました。趣味起点のリアル人脈はこのかぎりではありませんが、それ以外の学友やネット起点の人脈に対してはこの振る舞いは顕著であったと思っています。そして重要になってくるのが、この「劣っているか優れているか」の判断基準です。

 同年齢の人間について、「見下されないためには現時点から未来に向けて遅れを取るわけにいかない」という対抗心が発生したのはある程度想像しやすいのではないかと思います。では歳上や歳下に対してはそれはどのように発生していたのでしょうか?
 言語化するとなると難しいですが、大まかにいうと歳上に対しては「その人が自分と同じ年齢だった時より全てにおいて著しく無能であってはいけない、自分がその人の年齢に至るまでにその人と同等の性能を持つことが不可能と気づかれてはいけない」、歳下に対しては「その人と同じ年齢だった時の自分がその人と同等以上の性能を持っていなければいけない。現時点の性能比較で全てにおいて劣るようではいけない」というようなものでありました。
 まともに読んで頂けた方にはお分かりの通り、歳上にも被解釈恐怖を全く抱き得ないというわけではないものの、一方で歳下への判断基準はほぼ詰みゲーです。過去は変えられませんからね。自分より全てにおいて圧倒的に有能である歳下の人間が現れた途端、回避一択以外なくなってしまいます。

 歳上の人間で、なおかつ幾つかは自分より劣る点がある人間ならば、交流をする上で苛烈な被解釈恐怖に追われる心配はあまりない。その一方で、歳下や同年齢の人間については「彼らから一歩も遅れを取ることは許されない」という緊張感がついて回る。
 「いじめられた経験によって歳上とばかり交際している」というのは、そういう認知機構の中で生きていた結果、結局交際関係に至れるのはいずれも歳上の人間だけだった…ということなのではないのでしょうか。


3.まとめ

 ということで。
 「いじめられていたせいで同い年年下と話せず、年上とばかり付き合う」現象の正体は、「いじめによって他者への『被解釈恐怖』を抱えた結果、私的に密な関係となる恋愛関係に至れたのはほとんどがその影響が少ない年上だけだった」のではないか、というのが今回の結論です。

 まあ、+1歳〜+4歳程度の歳上と付き合っていた僕と、既婚者や妻子持ちと付き合っていた質問者では割と事情は変わってくるような気がしますけどね。僕は既婚者と付き合える人間の気持ちは全くわかりません。質問者のうお座女子、この後どうなったんだろう。


余談:実際、歳下と付き合ってみて

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