恋のこと

矢沢あいの『パラダイス・キス』を読んだ。親の敷いたレールに沿って生きてきた女の子が、服を作る人たち、抱えているもの、諦められない夢がある人たちに出会って、自分の意思でモデルの道を歩き始めるという話だった。

矢沢あい作品を読んでいて思うのは、恋は時に夢への意志とは反対の方向へ引力をもって、行く手を阻むものとなるが、その描写がかなり強くでている。時に登場人物たちは夢への道を選び、恋を終わらせる。終わるといってもそこにはとびっきりの大きな想いがあり、好きだからこそ終わらせるというところもある。

恋とはなんだ。愛とはなんだ。

恋は刹那的だ。こう書くと短絡的だが、なぜそうなのかというと、それは終わるからで、終わることに価値を持っているからだ。

恋が終わるとき、なにかがすれ違って、二人がひとつの人間ではないということが明らかになる。それぞれのまなざしがあって、それは一生交わらないかもしれない。または、一瞬交わっても、人間は動いて変化していく生き物だから、やがて交わらなくなる。
逆に言うと、恋はひとつの人間になりたいという衝動なのかもしれない。わたしはあなたであなたはわたしという安心感。母に求めたものの再来。


でもそれは続かない。なぜなら人と人はひとつにはなれないからだ。根本的に、別々の体をもって、別々の脳をもって、別々のまなざしをもつから、だ。それに気がついたとき、ひとは子供のようにいじけたり、失望したりする。
でもそれに気づいて乗り越えたとき、じぶんの両足だけで立って、歩いて、動いて、変わっていくことができるようになる。失恋で流れる血はへその緒から流れる血であり、母の腕から下ろされ、立って、歩いていくあの経験を、恋は繰り返している。

じゃあ愛とはなんだ。愛は他人と他人であることが大前提にある。眼差しがまじわることは本題ではない。ひとつになれないことなど分かっている、分かっているけどそれでも背中を合わせることはできる。どこにいても、ひとつになれなくても、そのひとつとひとつの背中にすこしのぬくもりを分かち合えるなら、それは愛だとおもう。

わたしは、大学1年生の時、はじめて恋をした。ずっと続くと思っていたけれど、やっぱり、どうしようもなく恋だった。もう他人ではいられなかった。
二年半かけて恋は終わった。でもやっぱりひとつになりたかったから、後悔はしていない。たくさん傷つけたことは後悔しているけれど、ひとつになりたかった思いに後悔はない。でも、少しの愛があの人の背中に残っていたなら、それはとてもいいなと思う。

今は愛をしている。

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