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城の崎にて

 

「城の崎にて」 1917年 

志賀直哉著


本をバックに忍ばせて、土肥へと車を走らせた。
友人家族との1泊旅行である。
「城の崎にて」の主人公は、大きなけがの療養の為、城の崎へと赴く。
もしかしたら命がなかったかも知れないということが、高く積み上げたタイルを一枚、ふいに引き抜かれたような、ぐらぐらと静かに彼を震わせた。
自分ごとではないが私もまた、遠い異国の友人の訃報を受け取ったばかりであった。

主人公は温泉宿に滞在しながらゆっくりと、時間をかみ砕くように過ごす。
蜂や鼠やイモリに出会う。
静かにそれらの生き死にを見つめる瞳の奥には、過去や現在や未来という時間が伸び縮みしている。
私も土肥で主人公と同じように本を読んだり、山や海をみたりして過ごした。
もうこの世にはいない友人を思いながら、生きている私を冷え冷えと味わった。
一緒に土肥にきた友人夫婦には、小学生の男の子と女の子の子供がいる。
その子たちと過ごす内にふと、以前教えてもらった「純粋持続時間」という言葉が浮かんだ。
哲学の時間の概念のことだけど、正確なことは難しくってわからない。

無邪気な子供たちと一緒にはしゃいでいたら、過去や現在や未来と言う時間が、私のぐるりを取り囲むことをやめてしまった。
川がゆっくりとその水を下流に運ぶように、私もまた、淀みなく流れる時間の川に運ばれていた。
日々私たちは、ゴムのように伸び縮みする時間を、錬金術さながらどんどん金に変えて、掌からこぼれ落ちる時間の砂金を掴もうとしているに過ぎない。

子供たちとのあの時間を、私はしかし、見つめることすらしなくて良かった。
ただただ流れる時間の上を滑っていた。
あれこそが私の「純粋持続時間」だったと、脳味噌のない頭で考えた。
土肥からの帰り、フェリーの甲板でやさしい夕日が海を照らした。
海と空の境界がおぼろげな光りで一体となったとき、この世界から消えてしまった異国の友人をまた思いだした、と同時に私の「純粋持続時間」は消えてしまった。
目の前には今が、後ろを振り返れば過去が、遠くみつめる先には未来が、揚揚と私の側にやってきた。
城の崎でも土肥でも、他のどこへいっても、時間に自分をからめ取られたりそれを弄んでしまう人間の器用で不器用な様を、仄寂しいと思う。

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