多様性、その複雑で実現できないもの
noteのテーマに悩みに悩み、「もう毎月の連続記録は諦めようかな」と思っていたところに思わぬテーマが降ってきた。
―多様性をアップデートするより多様性があっと驚くアップデートしてやる―
「多様性があっと驚くアップデートってなんだ?」この文言を見たとき、真っ先にそう考えた。
「多様性」この言葉にわたしは懐疑的だ。
もちろん、LGBTの人たちも外国人も何らかの障害を抱える人々も含めたすべての人が楽しく幸せに暮らせる世界になるべきだとは考えている。一方で、真に多様性のある社会を作ることなんて、本当にできるのだろうか?と思ってしまう。
わたしがこう考えるようになったのは、朝井リョウさんの『正欲』の影響が大きい。この作品はまさに「多様性」がテーマで、昨今の多様性を認めようとする社会への問題提起がなされている。(※ここから少し本作の内容に触れます。ものすごい作品なので興味のある方はぜひ、わたしのnote読むより先に読んでください)
『正欲』で語られていることをものすごく単純化すると、社会に受け入れられやすい多様性と受け入れられにくい多様性があるよねということだ。現在のLGBTは前者に属しているが、たとえば特殊性癖などは後者に入るだろう。
そもそも多様性のある社会とはいったいどんな社会で、何を目的に作ろうとしているのだろうか。
わたしは、真に多様性のある社会とは「多様な嗜好、特徴を持つすべての人が共存する社会」であり、その目的は冒頭に書いたように「すべての人が楽しく幸せに暮らせる社会を実現すること」ではないかと考えている。
そう定義すると、この社会を実現することは極めて難しい。
たとえば、一般に受け入れられない特殊な嗜好を持つ人が、真に幸せに暮らすためには多くのその嗜好を受け入れられない人が何かしらの不都合や不快感を背負うかもしれない。それをマジョリティ側が許容できるともするべきだとも思わないし、そもそもそれを許容した時点でマジョリティが楽しく幸せに暮らせなくなってしまう。
社会システムとして受け入れることは難しくとも、心情的にだけでも共存できればいいかもしれない。しかし、人間は自分と同じ属性や性質の人間たちと群れを作り、群れの外の人間には敵意や脅威を持ちやすい生き物だ。そんななかで、自分とまったく違う人も含めたすべての人を認め、寛容になることなんてできるのだろうか。
価値観の相違に対してですらカリカリしてもう交われない!と思ってしまう未熟なわたしはまったくできる気がしない。
そこで出てくるのが「多様性があっと驚くアップデート」である。わたしはこれを、こうしたさまざまな矛盾と葛藤や人間としての限界を乗り越えることと定義したい。戦闘能力も低く知性だけが武器の「考える葦」でしかないにもかかわらず、宇宙に行き、自らをも超えそうな知能を生み出した人間である。きっと今よりも、よく進んだ社会を作れると信じたいし、自分もそういった社会を作るたくさんのピースのひとつとなりたい。
なんて感じの文章を書いている途中で、「多様性があっと驚く『デート』」だったことに気づきました。馬鹿すぎて面白いですね。ついでに書いているうちに論理崩壊してる気もしてきて、多様性を論じる前に自分の脳の認知機能を心配するべきかも。
でもせっかく書いたので、(やっぱり毎月の連続記録も惜しいし…!)そのまま上げてみました。デートについては久しくしてないし、おそらくこれからもすることがないので書けません。脳を回復させるために、今日は早く寝ようと思います。
12月からフランスに行きます!せっかくフランスに行くのでできればPCの前にはあまり座らずフランスを楽しみたいので、0.1円でもサポートいただけるとうれしいです!少しでも文章を面白いと思っていただけたらぜひ🙏🏻