暘城生「エスペラント」『大阪朝日新聞』1906年4月24日

1906[明治39]年4月24日の『大阪朝日新聞』3面に、「一日一題」として「エスペラント」という記事が掲載された。暘城生の筆名で土屋元作が書いたものである。
同年5月に『読売新聞』に掲載された黒板勝美の談話とともに、日本においてエスペラントが盛り上がるきっかけともなった。

以下その全文。読みやすいよう、仮名遣い、難漢字、当て字などはあらため、適宜句読点等を補った。

世界万国の度量衡及び貨幣が一様で有ったならどの位便利で有るか知れぬが、更に一歩進めて、言語文字が一つで有ったなら又どの位便利か分らぬ。尤も言語は自然の勢い、政治家の交際に仏語、商人の仲間に英語を用うるように成りつつあるが、ソレも矢張り無駄な事で、二通りの共通語は大なる不便利不経済で有る、文字は又自然に羅馬字に帰着しようとする有様で有るが、ソレも今では、国によって発音が色々異なって居て、同じ字を二通りにも三通りにも読ませる。ソシて其の文字の綴り方などど来たら、多くは既に時世に後れて居って、字引や師匠に就かねば発音が出来ぬと云う始末、文字上の英語や仏語は、支那語漢語より却って始末が悪い位の事で有る。ソコで西洋人はどうしても是は赤道と北極との距離を基礎としてメートル式の十進尺度を極めたように、新に一種の言語を作り出し、簡易なる書き方を定め、普く之を各国に伝播させるの外は無いとして、一生懸命工夫を凝らして居るが、其の出来上がったものも既に数通に及んで居る。
此のエスペラントと云うも其の中の一つで、ポーランド、ワルソーの眼医者ザメノフの発明に係り、学者の好評を得たもので、英仏その他欧州諸国には、此の新語を学習し伝播するための協会が出来て居る、記者は昨年上海で、此の万国共通語の教科書を手に入れたから、帰朝の船中で一読し、忽ち万国語の大博士と為ったが、餘り記憶え易いものだったから又じきに忘れた、然し其の新語制作の要点は、
一 文法を極点まで簡易にした事
二 新語を生み出すに一定の規則を設けた事
三 人間の思想を分析し一箇の思想に宛つるに一箇の語を以てし応用変化自由自在ならしめた事
四 術語其の他現在諸国普通の語は成るべく之を改めぬ事
の四箇条である。
エスペラントの文法が簡単で有る例を言えば、動詞の「時」を現すに唯AS(現在)IS(過去)OS(未来)US(不定)の四語尾を用うるだけで「余は愛す」はMi amas、「余は愛せり」はMi amis、「余は愛せん」はMi amos、「余は愛せしならん」はMi amusという如く簡単明白、直に覚えられる、又英仏等の語には疑問の語即ち我が日本語の「か」に当たる語は無いが、エスペラントにはCuという語が設けてあって「余は愛せしか」という場合にはCu mi amisと言い、文字に書いても明白に疑問たる事が知れるようになっておる。ソレから名詞は必ずOで終わる仕組みで「父」をpatro、「母」をpatrino、木をArboと云うような式で有る。ソシて複数の時は必ずJを語尾に付けて数本の木Arbboj、数個の籠Korbojの如く組み立てるのである。又面白い事には名詞の目的格即ち「何々を」と云う場合にNをJの後に着けて之を他の格と区別する事に為って居る、例えば「数本の木を」Arbojn、「数個の籠を」Korbojnの如き式で有る。
西洋語には大抵面倒な冠詞が有るがエスペラントにはLaと云う定冠詞唯一つ有るばかりで、英語のaに当たるものさえもない、是れも簡易で甚だ宜しい。ソレから又形容詞と名詞の物主格を示すに、唯一つのaと云う文字を用うるのみで、「強い」はForta、「私の」はMiaで有る。
エスペラントは総てこの調子で出来上がって居るので、諸国に普通に用いられて居る語を新語に直すことなどは、ちょっと規則を覚えれば独りでやれる位で有る。まだいろいろ面白い事も有るが行数限り有り、前座は此の位にして後連に席を譲ると致そう、御熱心の御方は、倫敦レヴュー、オブ、レヴュー社出版ESPERANTOという書物を買って御覧なさい、一日勉強なされば此の新語で談話ができるーかも分からぬ。誠にハイカラ極まった訳で、Adiau(左様なら)

『大阪朝日新聞』1906年4月24日 3面

この翌々26日の『大阪朝日新聞』には、「再びエスペラントに就て」、さらに(ガントレットの名は伏せているが)通信教授の広告が掲載される。これらの記事を見た安孫子貞次郎が「日本エスペラント協会に就て」(6月3日付録2面に掲載)を寄せ、それによって黒板と相知ることとなり、日本エスペラント協会(JEA)設立につながっていくのである。


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