1906年『大阪朝日新聞』にエスペラント紹介記事を書いた「暘城生」は「土屋元作」

1906年[明治39年]4月24日の『大阪朝日新聞』に「エスペラント」、続く26日に「再びエスペラントに就て」と題する記事が掲載される。運動史の本はどれもこの記事は土屋元作によるものとしているが、記事現物の署名は「暘城生」(26日は「暘城」)であり、松本茂雄「1906年大阪のエスペラント」(『エスペラントの世界』1985.5~8)では、”最終的には土屋の筆名に暘城がつけ加えられる可能性は充分考えられるけれども”としつつも、”最大の問題点は土屋元作の筆名が大夢であって暘城でないということである。・・・(中略)・・・両者を結びつける資料が見つからない以上、土屋=暘城生説を認めるわけにはいかないのである。”と疑義を呈している。
『日本エスペラント運動人名事典』(ひつじ書房, 2013)の土屋の項でも、暘城生のことは触れられていないので、おそらくこの問題は解決していないのだろう。
というわけで調べてみたところ、結論から言えば暘城生は土屋元作で間違いない。

まず、暘城とは、土屋元作の出身地・日出藩(現・大分県速見郡)にあった日出城のこと。日出出身者の列伝『暘城人物伝』(日出町立萬里図書館, [1971])にも土屋の項がある。
土屋は日出にちなんだ「日出處人」という別の筆名も使っていて、『大阪朝日新聞』に「新學の先驅」を連載(1911年8月27日~10月30日、全56回)、これが書籍化された際には本名の土屋元作名義となっている。

また、24日の記事中に、"記者は昨年上海で万国共通語の教科書を手に入れたから、帰朝の船中で一読し、・・・"とあるのも、土屋が1905年[明治38年]3月北京特派員となり、同年秋に帰国している(『記憶を辿りて』(土屋文集刊行会, 1932)巻末の年譜より)ことと辻褄が合う。

そもそも、『大阪朝日新聞』の記事が土屋によるものということは、当時の関係者は知っていたとみえる。
『The British Esperantist』(Vol.2, No.20, 1906.8, p.89)に、ガントレットと安孫子貞次郎の手紙に基づく日本の状況が報告されており、”Li [S-ro Abiko] diras, ke la publikigo de artikolo verkita de S-ro. Tsutsuya [Tuschiyaの誤植と思われる], oficisto de la Asahi, unu el la plej gravaj japanaj ĵurnaloj, kaŭzis sensacion, kiu tiris la atenton de multaj personoj. ”とあるからだ。

以上のことから考えれば、暘城生=土屋元作で間違いない。
運動人名事典改訂の際は、土屋元作の筆名に「暘城生」を追加してもらいたい。

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