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俺は張衛が好き(北方三国志)

 本当は「チンギス紀」の読書感想文を書こうと思ったのだが「まだ熱い」と思っていい感じに冷えたであろう三国志にすべく再読したらバカみたいにはまってしまった。何度目だよ読むの。俺にはそういうところがある。ご理解頂きたい。

    北方三国志の主人公は前半が呂布で後半が馬超であることに疑う余地はないと劉備は思った。
 特に、呂布。北方先生は呂布を書きたくて三国志書き始めたんじゃないかというぐらい、呂布。武人・軍人としてパーフェクトかつ戦場指揮官として作中でも比肩しうる者がないほどのつよつよキャラが呂布である。
 呂布の率いる500騎の隊は全員漆黒の馬に漆黒の鎧で固められ、呂布の指揮の下、一塊になって動く「黒い獣」である。北方先生がのちに水滸伝やチンギス紀で描く無敵騎馬隊の原型ですらあると言える。
 呂布は首に赤いスカーフを巻いている。黒い甲冑の上から赤いスカーフを巻いてくれていたのは嫁である。既にこうして血を流しているから戦場ではもう血を流すことはないと言ってくれた、かなり年上の嫁である。
 呂布はお母さんが好きなのである。
 お父さんは嫌いである。父親ヅラをされるとうっかりカッとなって斬り殺してしまう癖がある(丁原も董卓もそれで斬られた)が、だからといってお母さんを大事にする方法はよく分かっていない。
 金銀財宝や広い屋敷などを貰うと大喜びする嫁の気持ちが分からない。ついでに董卓がくれた後宮の女をどうしていいか分からず、屋敷で下働きなどさせていたら、嫁が自分と見比べてしまいゴンゴン落ち込んでしまい(実は王允の策略なのだがそれは措く)それを知った呂布は屋敷に帰るやいなや女の首を跳ね飛ばしてしまう。加減を知らない男。しかも董卓が躍起になって女をたくさんくれる。そしてまた屋敷に置いてしまう。下働きの下女たちがどんどん美しくなっていき嫁はもりもり意気消沈。
 それを知った呂布は全員を斬り殺す。ちゃんと分かってます、あなた?
 呂布には北方魂の神髄みたいなものが込められており、そして赤兎とふたりになったりした日には「北方謙三作品」以外の何物でもないという状態となりそして死ぬ。
 北方作品の真骨頂は滅びの美しさである。
 実際に三国志の中では「あと一歩だったのに」という話が多い。それは知っている。しかし北方三国志のあと一歩は、こちらがうっかり「このままでは最低でも歴史が変わるが、その場合、仮想戦記になるが良いのだろうか」と思ってしまう。これは北方先生の時代モノは全部そうだと言ってもいいぐらい、上げて、落とすの急降下が容赦ない。
 呂布のくだりもそうである。
 様々な作品の呂布と違い、北方三国志の呂布は個人の武一辺倒でもなければそんなにバカでもないので、陳宮の対策が万全だったこともあるが、曹操の水攻めも兵糧攻めも陳桂・陳登親子のしょうもない内通もものともしないし、黙って籠城していれば援軍のアテもあり(なお城の外には張遼が配置されており内外の呼応でなんとでもなった)陳宮は万全。有能。それが陳宮なのだが、曹操とかいうひょうろくだまのうす汚い野ねずみのような乱世の奸雄などと称する宦官の家系に生まれたクソ野郎の最低の謀略により陳宮は柱にぐるぐる巻きみたいにされて浚われてしまう。ついでに高順も一緒に浚われるが、お前はダメだろという気がするが高順なので仕方ないとしよう。
 籠城していれば勝てるから、と叫びながら柱にぐるぐる巻きにされていた陳宮を助けるために城を出て、曹操の軍勢に突っ込んでいく呂布。陳宮を渡すわけにはいかん、返してもらうぞと絶叫する呂布。ここもあと一歩で曹操の首が取れた。取れなかったのは乗っていたのが赤兎ではなかったため。
 とてもいいシーンなのだが、高順のこともちょっとは気にして欲しい。
 要するに呂布は友達認定しているのは赤兎と陳宮なんですよ。赤兎が病気になっちゃったら曹操の命より赤兎を優先する。籠城していれば勝てるのだから浚われたことに構わないでくれとか言われても陳宮の命を優先する。天下よりも友の命が大事。友の期待に応えるためだけに、別に興味もない天下取りを始めた男、それが呂布。
 赤兎とふたり。そう思った。
 馬の数え方が「人」
 
 呂布の話だけで終わる気がしてきたので張衛に話を戻します。というか始めてすらいなかったのだが気にしないで欲しい。
 張衛が好きなのだという話をしたい。
 張衛というのは、五斗米道という宗教があり、その教主である張魯の弟である。五斗米道軍というのを指揮している。正史によると張衛は、漢中に攻めてきた曹操軍を初戦ではじき返すモノのその後敗退、山中で鹿の大群に襲われ戦意喪失、曹操に降るとある。鹿の大群は怖いからね。奈良の鹿ですら怖い。鹿せんべいを調子に乗って配りまくっていると鹿が俺を包囲している。そしておざなりなお辞儀を何度もしてきてさっさとせんべいをよこせと威圧される。奴らは筋肉の塊であり一頭にでもキレられたら俺は死ぬ。
 張衛は演義だと許褚が一騎打ちで倒してくれるそうなので扱いが良い。許褚が一騎打ちで倒してくれるなんてそうそうない。曹操だけに。というか許褚が一騎打ちしているシーンあったっけという感じだが。
 北方三国志での張衛の扱いはまた別格なものがある。
 後半の主人公は馬超と言ったが、その馬超とかなり深く絡む。張衛自身はかなり前から登場しており、上半身は裸になってでかい岩の上でずっとあぐらをかきながら「俺も天下取ったりたいがどうしていいのかワカラン」と自問自答する日々である。
 張飛の騎馬隊にあしらわれて、その張飛の調練を見に行ったりもするマメなやつだ。正体を隠していたのに、張飛に「おい張衛」と一撃で見破られたりする可愛い一面もある。ワタクシはチョウエイではアリマセンガ? とメカボイスで答えたら正直、名前なんかどうでもええわ、と張飛にあしらわれているが、ちゃんと話はして貰える。
 馬超との初邂逅の時は旅の武芸者を名乗り馬超どのと手合わせしたいなどと言うが、何もしないうちから馬超と向かい合っただけで「無理」となる男だが、馬超は割と張衛を気に入ってしまう。
 張衛は複雑な男である。作中通して最も複雑なのではないかと思うくらい、複雑である。行ったり来たりを繰り返しながら、五斗米道が俺の思うままにならないんだがどうすれば? と悩み続ける男である。旅なども繰り返すので各地の将軍の下を立ち寄るなどすれば主人公と言ってもいいような男であったが張衛は残念ながら主人公ではない。
 俺が北方三国志で最も人間味を感じたのが張衛である。
 五斗米道の教祖の弟として生まれたがために思うように生きられず悶々とする日々である。かといって張衛が一国を領して支配し天下に覇を唱えられたかというとそうでもなく、有力な武将の一人ぐらいにはなれたんでねえかなレベルだが、そのさじ加減も俺は好きである。俺は二軍のトップみたいなキャラが大好きなのである。

 弟として生まれたがためになどというが、そもそも張衛がまかりなりにも一軍を率いていられたのは兄貴のお陰である。素でこの乱世に生まれていたら、という想定が虚しいばかりに、張衛は人の力、人の庇護の下でしか己を発揮出来ない。そういう巡り合わせなのだ。
 その癖、そういう分際を弁えず、天下などと言ったりする。
 蜀の劉璋すら倒せぬままに日々を無意味に過ごす日々である。ちなみに劉備は蜀入りしてから劉璋など秒殺した。別に殺してないが。惜しいかな蜀(横山三国志)

 そういう悶々とした日々を過ごす張衛が凄く好きで感情移入してしまう。上半身裸で岩の上に座ったまま悩みに悩んで十年くらい過ぎている。そういうことあるよねって感じだ。ちなみに五斗米道絡みでは北方先生の筆が冴え渡り、曹操の間者(五個の者。仏教の人たち)の筆頭である石岐による張魯人間化大作戦と、それに対する張衛の叔父である鮮広(武術と軍学に造詣が深い張衛の師。ちなみに多分親父)との友情と敵対の相反する相克の中で遂には立ち合いで決着を着けることになるのでかなりアツい。
 ちなみにこのアツいシーンは描写されていないので読者が想像するしかない。これは北方先生の作劇手法の一つでもある。描写はしないが陰でアツい展開があったとだけ描写し、詳細は書かない。昨今の作品は多分、書く。書くのが正解だと俺も思う。だって読者も求めてるだろうし。だが北方先生は書かない。そして北方先生は常に正解しか書かないと仰っている。故に正解である。
 
 張衛にはそこそこ才能があった。
 そんなでもないが乱世でちょっと頭角を現すには十分な才能である。
 だが兄貴がチンタラしているもんだからその才能を発揮する機会に恵まれず身も心もすり潰していくこととなる。かといってその才能も目を瞠るというものでもなく、何か言ったりなんかやったりするたんびに、叔父の鮮広や馬超に「お前ほんっとになんかイマイチだな~」と思われたりするのも可愛げがある。というかそういうとこが好かれる。伸びしろがあるとかじゃなくて、なんかこう、ズレてんねお前、みたいな。
 さっさと兄貴を殺しておけば良かった、自分が教祖になれば良かった、そんなことに気づいた時には漢中は曹操のものである。
 色んな気づきが二周くらい遅れている。
 オタクがやっと世の中のトレンドに気づいたときには二年過ぎていたみたいなペースで気づきが遅れている。
    張衛の魅力はそのまごついてる感にある。北方作品のキャラクターはだいたい、割り切った性格と自認した上での才能を持ち合わせているのだが、張衛はどっちかよく分からないところがあり、予断を許さない。

 張衛は「よそにいたらちょっとした武将」ていどのものだと思うが(武力80くらい)キャラクターには覚醒イベントが発生することがあり、そこを通過するといきなり強キャラになったりすることがある。張衛の場合は五斗米道降伏と漢中陥落が覚醒イベントとなる。
 石岐による張魯人間化大作戦によって平凡な人間になってしまった張魯は曹操に降伏するのだが、馬超が張衛に「最初の一戦だけでも一緒にやって曹操をビックリさせよう」などと言って誘い、最初の一戦で激烈勝利し追い返す。ここで五斗米道軍が全力で畳みかければ曹操を追い返せたぐらいの勝利なのだが、張魯は一兵たりとも動かさずそのまま降伏する。
 この「勝てただろ、なんで負けるんだよ」のいつもの展開をここで使ってくれるあたりも張衛は得していると言える。非常に歯がみする。北方先生はそういうの本当に巧い。負けさせるために勝ちの可能性を99パーセントまで上げて描く。

 訳のワカラン、野心なんだかなんなんだか、「どうも天下取りが流行ってるらしいのだが俺はどうしてもその輪に入り込めないのだが」という、パーティの隅っこでまごまごしていたみたいな張衛だが、五斗米道を出て行ってからは見違えるように強者感があふれ出す。
    馬超が一人前扱いしだすくらいテキパキとする。漢中争奪戦では馬超と共に魏の糧道を断つのだが、山ん中の桟橋みたいなとこ(ほんとに桟橋。漢中の周りは切り立った崖しかないからね。おっかないですね。落ちて死んじゃうよ)に馬超と降り立ち「俺たち二人が前後に分かれて二百人くらい斬りまくれば良い」などと言い放ち馬超とともに斬りまくる。武力80から90ぐらいに上昇している。
 仲良くなっとるやんけ。元から馬超は張衛のことは気に入っているのだが、なんかトンチキなやつだなという保護者目線が過多だった。山の中で暮らし始めた張衛のことは素で見直しているところがある。戦術を張衛が組み立ててみせたら「お前どこかの軍師になれるぞ」と茶化すところなどもうデコボココンビ結成前夜という感じだ。
    かくして遂に張衛が一人前になった。
    感慨無量である。

 だがまさかここから悲劇が始まるとは。
 北方先生は「上げて落とす」の達人である。張衛も遂に上げられて飛翔したかと思えば、落とされる。残酷なことだが仕方がない。それが北方先生のテクニックなのだ。テクニックの犠牲になった感がないでもないが。
 
 山の中の生活をすると割り切って全てから解き放たれ成長した張衛を、再び天下取りなどという妄想がついばみ始める。きっかけは漢中争奪戦で、魏の大軍を蜀が追い返した戦を見て、興奮したからである。
 俺にも二千人しか兵士はいないがあれならやれるはずだと張衛はうっかり思ってしまった。なんでそんなこと思った。蜀は誰かが一人で戦って追い返したわけではない。色んな立場の人間が色んなコトをして総力戦で追い払ったのに、なんで山ん中にいるたった一人のお前が? 二千人? などかなり、張衛の持つポンコツ遺伝子が息を吹き返してしまうことに孔明は落胆を隠せなかった。
 それもこれも蜀が見事な戦をしてしまったからだが、蜀的にも張衛のことなど気にしてはいられないし勝手に感動されて影響されることまでは責任を負いきれない。蜀もこのときもこのあとも大変なのだ。

 南蛮制圧の時に、孔明は「そういえば山ん中にいる張衛、ヒマかな? 南蛮で山岳戦とかやらせてみたいんだけど」って馬超に訊いて、正規軍雇用のチャンスだったのだが、この頃には馬超は、またぞろ天下取りなどという妄想を抱き始めた張衛がちょっと嫌いになっているので推挙しなかった。あんなもん山賊にしかならねえよと思っている。実際そうなのだが。
 ここで蜀に編入されるという展開でも特に問題はないし、張衛にはそうやって幸せになって貰いたかったが、既に「五斗米道にいたときより悪くなっている」状態にまで陥ってしまった。

 ところで袁術という奴がいる。
 伝国の玉璽を貰ってウキウキしながら皇帝を自称し始めたアホである。めちゃくちゃ血を吐いて死ぬ。ちなみに袁紹も血を吐いて死ぬ。袁家は食道にできものが出来てしまう家系なのだ。
 その後、伝国の玉璽はどこにいってしまったのだろう。
 袁術の配下にも心利きたる者は何人かおり、袁家の娘を連れて伝国の玉璽と共に落ち延びている。計画では西の果て(敦煌)から袁家を巻き返す予定で、その旗印となる袁術の娘が袁綝である。
 ネタバレになるが袁綝は馬超の嫁になる。
 そんなもんネタバレでも何でもなく、北方先生の作品は男女が出会った瞬間、だいたいくっつくなと予想されるしその通りになる。たまにおかしなことにもなるが大抵そうなのでネタバレではない。
 
 張衛、それに目を付けた。袁綝と玉璽。二つあれば天下を取れるとまで考えてしまった。何でだよ。ズレてるが愛嬌のあるおっさんから、かなり覚醒した頼もしきおっさんとなり、そして完全なる愚かなおっさんとなる。何でだよ。
 北方先生は「こいつを軍師にしようとして書いていたのに気づいたら死んでいた」というぐらい作中の流れにより沿う方なので、多分、張衛も正体不明の力に導かれアホになった。正体不明の力は残酷である。
 袁綝を犯して俺の女にし玉璽もあれば皇帝になれる、まで考えてしまうあたり、一時、まともになってから精神の不安定さがぶり返すとより酷くなるという症例の見本のように堕落していく。なれねえよアホ。その具体性の全くない計画は何なんだ。
 ちなみに馬超はそこまでされても張衛を怒るとかしない。非常に哀れな生き物を扱うようになってしまう。仲良かったやんけ。どっかで止めろとも思うが馬超はあんまり他人のことは気にしない世捨て人メンタルになってしまっていたので仕方ない。
 殺されていればまだマシだったのだが、片腕を切り飛ばされる。北方作品において強姦の代償は大体、片手切断である。

 その後、自分の軍を「義勇軍」と称し各地でちっちゃく転戦し続けるのだが、飢えてきたので押し込み強盗をやるようになり完全に賊徒として扱われ手配書まで回されるが「それは仕方ないじゃん」などと自己正当化を繰り返し、脳の病(曹操のとは違う種類のメンタル的なやつ)が進行していることを伺わせてつらい。

 張衛はなんと最終巻まで生き延びる。
 完全に可哀相な貧乏賊徒になっているが自分では義勇軍だと信じている。呉に向かい、兵士に取り囲まれても堂々として「上の人間に会わせてくれ、俺は元・五斗米道軍の張衛だぞ」などと喚いたりする。自信満々に。やけにすらなっていない。話がそれで通じると信じている。言えば上の人間に会わせて貰えると確信している。ちなみに話している相手は朱然なので(張衛が知らない人)充分、上の人間というのも心が痛い。
 とても可哀相な奴だ。
 天下取りという一大ムーブメントの犠牲となった男である。
 「我らは義勇軍として呉に」と口上を述べたら「義勇軍て、今時?」と笑われてしまうのが俺は本当に悲しい。熱心に語り続けるトレンドが二年前に終わっていたことに気づいていないオタクの末路である。まだ流行っていると思ってんのかそれ? という悲しい末路。バズったやつに十年前ぐらいに流行っていた雑で質の粗いまんが・アニメの画像をリプってしまう存在と同じ悲しさがある。

 張衛の周回遅れ体質や考え方がのんきでズレてる辺りなどは、五斗米道で飼い殺しにされていた期間が長すぎたからと兄も謝っていたが、どうせ劉焉を攻めるでもなし石の上でボサッとしているぐらいなら、あちこち旅をして回るべきだった。たまに物見遊山で出かけるのではなく、月一くらいで。
 自分で自分をどう扱っていいのか分からない上に、天下という壮大な言葉が現実味を全く帯びず(所詮は漢中の田舎もんである)しかもアテにするのは無意識にいつも他人の力。無意識なのが本当にたちが悪い。

 山の中で暮らしている時の張衛がまともだったのは、自分の力だけをアテにしようと決めたからであって、頼り癖さえなくなってしまえば張衛はいいやつなのだ。それなのに天下が。天下取りが。蜀が曹操追い返したの見てしまって影響されてまた他人を頼る。一人じゃ天下取れないことぐらいは分かっている。

 北方先生は当然、男を書く。男を書かずして北方先生であるはずがない。男の誇りである。その一方で卑劣なやつも書くし、性的に倒錯しているやつも書くし(司馬懿はマゾなので女の着物を孔明に送られたりして侮辱されると泣きながら気持ちよくなってしまう)幅が広いが、張衛ぐらいの複雑さを有したキャラはあまり見ない。というかパッとは思い浮かばない。

 張衛の出番は長い。初期からいて石の上に座っていて、最終巻までいた奴だ。多分、出番は関羽より長い。三国動乱の生き証人みたいなやつなので印象が深い。
 北方先生のストーリー構成と書き方からすると、三国志という物語の中で培養に培養を重ねながらしつこく生きているうちに、こうなってしまった感もある。結果として複雑になったという言い方も勿論出来るが、それはちょっと冷やかしが過ぎると思う。
 結果としてそうなったものは大抵、キャラがブレる。
 張衛はキャラがブレているのではないどころか、一貫している。
 ブレたキャラは複雑なのではなく、代目が代わった別人なのだ。張衛は張衛一代記を貫いておりだから悲しい。破滅や滅びを描く時の北方先生の筆致は恐ろしい切れ味を持っているが、張衛はなんかいつもと様子が違う。
 いわば「コミカルなキャラだったのに突然、外道になって哀れに死ぬ。そこに整合性はある」という感じだ。最終巻で盛り上がる中、今までの張衛のあれやこれやが脳裏を過り、自分なりに真面目に頑張ろうとしてたけれども、正しい頑張り方がよく、分からなかったんだな、という悲しさが胸の中に溢れてきて止まらない。

 北方三国志は随所の展開やキャラにヒネりが加えられており、尚且つだいたいは「男。誇り。かっこいい」で仕上げられているから、男の誇りと生き様縛りでここまで書けるんだなと改めて思ったりする。北方先生は縛りプレイで天下を取ったような方である。
 だがさすがにそれらは読者として憧れはしても、その気持ち分かるとか俺もそう、なんてとても言えないと思われる。世界が別すぎる。もしくはかっこよすぎるので「分かる」などというのを躊躇わせてしまう。
 そんな中にいる張衛は割と気軽に「お前の気持ち分かるわ」と言えてしまうキャラである。言えてしまえるのが俺は好きなのだ。もし北方三国志を通読される機会があったら、張衛というキャラに目を配ってあげて欲しい。そして「お前はなんかズレてる奴だなあ」と馬超そっくりの顔で呟いたりして欲しい。作中「何巻にでもいる」ような奴なので呟きやすいかと思われる。

 最初に呂布でモタついたとは言え、張衛縛りでこの分量になってしまった。全部に触れたら大変なことになります。だが俺がどうして張衛が好きなのかは分かっていただけたと思う。いやそんなの自信ないが、多分。
 なのでこれで終わりにしたい。果てしなくnoteを書くことになる。あと水滸伝も読み直すと思う。俺は水滸伝は紙の本で読んでしまったので、電書をイチから買い直すと思う。俺には自制心が著しく欠如している。
 どうでもいいが俺は文庫になってから三国志も水滸伝も読んだ。金をケチっているわけではない。完結してから一気に読みたかっただけだ。俺一人が新刊を買わなくても北方先生的にはどうでも良い。
 うっかりチンギス紀は気になりすぎて現行で買ってしまい続きを待ちかねておかしくなるところだった。

 チンギス紀の話もいずれしたいが(というか今すぐしたいが)それはまたいずれということでいい加減、書くのを止めたい。俺には自制心がない。それが俺の男の誇りでもある。
 何が誇りだ、いいように言うな、便利に使うな。
 と劉備は思った。

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