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「貢献感って、承認欲求では?」

アドラー心理学を一緒に学んでいる友達から、
こんな質問を頂きました。


「今、『劣等感と人間関係』を読んでいるのだけど」

「うんうん😊」


「そこでは、健康なパーソナリティの条件として、

1)自分を受け入れていること
2)世界を信頼していること
3)貢献感を持っていること
4)誠実であること
5)共同体感覚を持っていること

って5つの条件が書いてあって」

「うんうん」


「でも、貢献感って、
◯◯してくれてありがとう
って相手から言ってもらうことが目的になっちゃうと、
結局、承認欲求じゃない?
それ、あんまりよくないのでは?って思っちゃって」


「あー、うん?なるほど?
 貢献、って言いながら、
 それ、自分のためじゃね?
 ってひっかかる感じ?」


「そうかも」


「んー、
 アドレリアンの大きな目標って、
 この5つの条件の5つめ、
 共同体感覚の育成で」

「うんうん」


「共同体感覚が広がると、
 自他の区別があんまりなくなっていく感じ。
 自分のためになることが、
 そのまま他人のためにもなる感覚」


「ふんふん」


「たとえば私だと、
 古事記の講座やってる理由は、
 私が古事記を深く知りたいから、なんだよねw」


「そうなんだw」


「うん。スタートは自分のため。
 でも、そこで、私が学んだものを受講生さんにシェアすると、
 受講生さんは、

 古事記を知ることで、日本人のルーツにつながれる安心感を得られたり、
 日本人のプロトタイプを知ることができたり、
 人生の教訓を得られたり、
 子どもに詳しく古事記を教えることができるようになったりするわけじゃん。

 私のためスタートで、
 でも、人のためにもなってると思う。
 これでいいんじゃないかなって思ってる。
 
 人間がやることで、
 自分のため0、人のため100とか、
 逆に、自分のため100、人のため0とか、
 現実的にはあんまりなさそうだし」


「なるほどー」


「逆に、人から感謝や承認をもらわないとやってられない!
 って強く思う時って、
 自分がやりたくもないことを我慢してやってる時じゃない?」

「そうかも」


「どっちかっていうと、
 どうにかしなければならないのはそっちな気がするなぁ。
 これは貢献だろうか?承認欲求だろうか?ってとこじゃなくて。

 たとえば、
 お母さんが家の中で一人で家事と育児を担当して、
 なんで私ばっかり犠牲になってるの!とか、
 こんなに我慢しているんだから、せめて感謝してよ!とか、
 なっているんだったら、
 家族全員で、全員がラクになれるにはどうしたらいい?
 って、工夫する方が大事な気がする」


「たしかにねー。
 必要なのは、我慢じゃなくて、工夫なんだね」


「そう思うー」



アドレリアンがいう「みんな」には、
当然自分も含まれるので、

みんなで一緒に幸せになっていけるといいな、
そのための工夫をしたいな、
と常々思っております。


何もしないで幸せになれるほど人生甘くないw
何かはしましょう。
でも、そこで自分を犠牲にしないで済む工夫もしましょう。
そんな感じで生きておりました。

誰かが犠牲にならないと成立しないみんなの幸せって、
不自然よね。
不自然って続かないし。

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