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ゆうきがくれたもの。

両親が共働きで、学童保育に通っていた私にできた最初の友達はゆうき。彼女は私と同じマンションの4棟(私は1棟)にお母さんと2人で暮らしていた。親の帰りが遅い日はよくゆうきの家でご飯を食べさせてもらった。私の家では出たことのない手作りのハンバーグや素を使わないちらし寿司に驚きながら「ゆうきの家はいいな」といつも思っていた。

お母さんから溢れんばかりの愛情をもらっているゆうきがいつも羨ましかった。

お父さんがいない=貧乏で不幸で可哀想なはずなのに(恥ずかしながら当時はそんな先入観を持っていた)ゆうきは私と同じマンションに住み、部屋はいつも綺麗で服はオシャレ。お母さんは美人で優しいし、いつもプラスの言葉をゆうきだけでなく私にまで掛けてくれる。毎日手作りの美味しい料理が食卓に並ぶ温かい家。なんかイメージと違うな…

だって両親が揃っている私の家は、ともに帰りが遅く外食か出前が基本の夕食。両親の喧嘩は絶えず、父親の怒鳴り声が響き、年の離れた兄が暴れ、たまに殴られ、泣きながら後片付けしている母の側にいくと「子どものために私は離婚しない、我慢している」と言われる、怖くて冷たい場所だったから。

いつも嫌なことや悲しいことがあるたび、ゆうきは話しを聞いてくれて、共感してくれて、優しい言葉を掛けてくれる。私はゆうきが大好きだった。

小3の終わり、私は引っ越すことになる。

見送りに来てくれたゆうきに住所のメモを渡し「お手紙書くね。また一緒に遊ぼうね。忘れないでね」と、泣きながら一生会えなくなるかのようなお別れをした。

ただ隣町に引っ越すだけなのに。電車でも5駅ほどの場所なのだから高学年になれば自由に行き来もできるのに。

結局、お互いに数回手紙を出しあって、私とゆうきは疎遠になった。たまに思い出しながらも「またいつか会える」「高校生になれば同じ学校かも」なんて思いながら、私がゆうきに会いに行くことはなかった。

皆に羨ましがられた引越し先の大きな一軒家では、両親の関係がさらに険悪になり、兄の暴力は手に負えなくなっていた。引越し先の小学校に馴染めず不登校になった私は中1の途中から全寮制の中学校に転校する。母には、お兄ちゃんからアナタを守るためだと言われたけど「家を出されるのは私なのか」と捨てられた気分だった。

寮母先生に心を開かず、寮生の中でも孤立する存在だった私にも一人だけ心を許せる学校の先生がいた。当時20代後半の美術の先生。

私の話に何時間でも付き合ってくれ、携帯電話の番号とテレカ(懐かしい)を持たせ「学校がない時間は夜でもいつでも電話しておいで」と言ってくれる。写真に興味があると言えばフイルムカメラと暗室を用意してくれる。親にも誰にも話せない悩みを告白できたのは、ゆうきとその先生だけだった。

放課後は寮の門限ギリギリまで毎日美術準備室で過ごしていた。帰宅が遅いことを寮母先生に問い詰められるたび「補習があった」「宿題をしていた」と嘘をつきながら。

結局、先生が男性という理由だけで
「アナタはすぐ男に懐く」
「アナタは男好きな顔をしてる」
「皆いやらしいことしてると思ってる」
「授業が終わればすぐ寮に帰りなさい」
と言われ、準備室に覗きにこられ、先生と引き離される。(今思えば私だけでなくその先生に対しても酷く失礼だな。。。)

どこにも逃げ場がなかった。

いつも通り、寮の部屋で一人退屈に過ごしていた夜。寮母さんに「お母さんから電話よ」と事務所に呼び出された。

家を出て2年、初めての親からの電話だ。受話器をとると母が唐突に言った。

「ゆうきちゃん、亡くなったって」

下校途中に倒れ、そのまま数日入院し、皆が修学旅行に向かう新幹線の発車時刻にゆうきは死んだ。心臓に病気を抱えていたらしい。

なぜ文通を続けなかったんだろう。
なぜ会いに行かなかったんだろう。
なぜゆうきは死んだんだろう。
なぜ私は今ここにいるんだろう。
なぜ私は生きてるんだろう。
死ぬってなんだろう。

初めて触れた人の死に未熟な私が耐えられるわけもなく、数日が経ち、やっと寮母先生に話ができた。

「大切な友達が死んでしまった。何をしてても涙が止まらない。家に帰りたい。友達に会いに行きたい」と。

寮母先生の答えは「サボるために、寮から逃げるために、家に帰るために、友達まで殺すのか」「そもそもアナタに友達なんていない」

漠然と、あぁそうか。信じてもらえないのは寮から逃げるために、大好きな先生と過ごすために嘘をついていたことへの罰だと理解した。

学童時代の友達と弔問したとき、ゆうきのお母さんは「こんなに長くゆうきと過ごせたことに感謝してる」「皆に出会えたことにも感謝してる」「ゆうきが大好きだった皆は素敵な子、生きていれば何でもできる」「どうか素敵な人生を生きて欲しい」と言ってくれた。

写真になったゆうきに会い、ゆうきのお母さんと話し、ゆうきが倒れる直前ケンカ別れをしていた友達と後悔を共有し、私は決めた。強くなろう、と。

人生には取り返しのつかない後悔があると知ったから。

こんな私のせいでゆうきの存在を否定され、ゆうきの死すらなかったことにされたのが許せなかった。

寮母先生に負けたくない。
自分の人生を勝手に決めつけられたくない。
誰かのせいにして逃げたくない。
次ゆうきに会ったとき、恥ずかしくない自分でいたい。

ゆうきの死から一ヶ月後、私は地元中学校への復学を決意する。
一学期末の三者懇談で私は、二学期から復学できるよう手続きをお願いした。驚き、戸惑う母の質問には一切答えず、寮へ向かい同じように退寮の手続きをお願いする。

私を嘘つきだと言った寮母先生はその後、母からの電話を取り継いだ寮母先生から事実を聞いたあとも、オオカミ少年と同じ、アナタのこれまでの言動が原因だと言って最後まで謝罪はしてくれなかった。

5年間の不登校を終わらせ、地元中学に復学した私の目標は普通の高校生になること。そして大学へ進学して家を出ること。自分の人生を自分で切り開くために。

不登校になった私に、もうアイツの人生は終わったと言った父。
アナタに普通の学校なんて無理だと言った母。
嘘つきで逃げてばかりのアナタがいい大人になれるわけがないと言った寮母先生。

大人たちを見返すためだけに、必死で学校に通い勉強した。つらくなるたびに、ゆうきを思い出しながら。

ゆうきにはやっぱり生きててほしかった。

でも、あの出来事があったから私は自分を見つめ直し、強く生きる決意ができた。

地元中学に復学すること、普通高校へ進学すること。

周りのすべての大人に「無理だ」と言われたあの選択は、間違いなく私の人生において最善の選択だった。

復学後のいじめも、高校でのいじめも、大人になってからの離婚ですら、自分で選んだ道だから負けないと、これまでの人生一度も後悔せず生きてこれたのは、あの選択で得た自信があったから。

そんなチャンスをくれたゆうきに感謝して、ゆうきが懸命に生きた14年間を忘れない。

ゆうき、友達になってくれてありがとう。
ゆうきと別れて25年、もう39歳になったよ。
まだまだ理想の自分には程遠いけど…ちゃんと毎日を生きてるよー!!!!!

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