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共感を示さない意見は否定になる

妻と話をしているうちに、今日もなんだかぎくしゃくしてしまった。夫婦といえど、話をしていれば噛み合わないこともある。噛み合わない部分を見つけて、それでもまた話すからこそ夫婦だ――と個人的には思うので、ぎくしゃくするのはどんとこいだ。

とはいえ、毎度同じことでぎくしゃくし続けるのはお互いにちょっと大変なので、ぎくしゃくしてしまったからにはその都度なにかを学びたいと思う。

そんなわけで今日のぎくしゃくからひとつ学ぶことがあるとすれば、それは「共感を示さない意見は否定になる」ということ。

コミュニケーションについて学んだことのある人からすれば、なにを当たり前のことを、と思われるかもしれないが、知識として学ぶのと経験として学ぶのは雲泥の差だ。

話すなかで、どうも言いたかったことが思ったように伝わらなかったので二人で振り返ってみたところ、わたしの意見に対して妻は「否定されたのかと思った」と言う。

なぜ否定に聞こえたのか。

積極的傾聴などの技法でもよく言われるように、人は共感的姿勢を見せることが大切であり、共感的姿勢を示さなければなかなか心を開いて話をしてはくれない。

まがりなりにも心理カウンセラーの勉強をしている身のうえである。そんなことは百も承知だ。しかし、妻に対してはまったくできていない。

共感的姿勢を示す方法はいろいろとあるけれど、わたしにもっとも欠けているのは「言葉」だ。自覚がある。昔から親にも言われている。しかし、「親にしか言われてこなかった」とも言える。

反面、友人知人や上司部下、仕事仲間などに対する共感的姿勢の示し方はなかなか板についたものだ。

どういうことか。

答えは単純で、気を許した相手には共感を示すことを忘れてしまうのだ。親しき仲にも礼儀ありとはよく言ったもので、それをわたしは頭ではわかったつもりで心の底からは実践できていないのだと思う。

妻しかり親しかり、気の置けない関係においてわたしは共感を示す工程を省きがちだと今日改めて学んだ。

そして、共感を示さない意見は否定ととられることも学んだ。なぜそうとられるのかは考え方がいろいろあるが、ひとつに「人生態度」が影響しているのだと思う。

「人はデフォルトの選択肢を変えたがらない」という研究結果がある。たとえば臓器提供の意思表示について、「提供の意思がある人は○を付けてください」とするよりも、「提供の意思がない人は○を付けてください」とするほうが、提供の意思がある人の数が増えたというのだ。

その例に倣うなら、人生態度が「自己否定他者肯定」ないし「自他否定」の状態のとき、肯定の意志を示されなければそれは否定に映ると考えられるかもしれない。

「研究結果がある」だなんてそれっぽくまとめてみたものの、こんなのは言葉遊びの延長のようなもので、実際問題として何が原因かなんて些末だ。

大事なことは、身近な人に自分が甘えてしまっている部分があり、今日そのことに改めて気づくことができ、そのおかげでこれからは大切な人たちにきちんと礼を尽くしていけるということである。

人と会うのが難しい時代だからこそ、当たり前に話ができるありがたさをきちんと伝えていきたいと思う。

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