裕木奈江「ゾーニング」発言から思ったこと その1

スルーしていたのですが、

を読んでしまったことから

に辿りつきました。

今回はその感想をグタグタと書きます。

まずはじめに
私は「ゾーニング」の意味を正しく理解していません。というか分かりません。
この文脈においての「ゾーニング」とはどういうことでしょうか?

自由な娯楽を嗜むには一定以上の知性が必要で、そうでない人には自制が難しく作品に影響され自分勝手で感情的な行動をとりやすくなってしまう。

裕木奈江

ちなみに私は色々と30年間経験した後に、「現実社会で違法とされている事はエンタメでも基本表現を制限・禁止するべき」と思っています。

裕木奈江

で言うと、「ゾーニング」とは物語を信じてしまう馬鹿、虚構と現実の区別のつかない馬鹿には、見せるものを制限しろということでしょうか? (文章には馬鹿とまでは書いてませんが・・)

一方で、他の発言を読んでいると、

ニューヨークタイムズに未成年の身体をフェチ的にしつこくしつこく愛玩描写する娯楽作品の広告が出たら、普通に抗議デモや不買運動が起こりそう。
表現の自由は大事だけれど、お堅くあって欲しいブランドイメージの新聞でわざわざ見せなくてもって思うよね。

裕木奈江

というものがありました。
また、

なぜ日本はゾーニングが苦手なのだろう。

裕木奈江

グレーゾーンが多く国内ではそれでよかったものが、時代の流れに沿って変えていかないと世界と互換性がなくなり落ちこぼれるので、世界の目に触れる場で起こった事に関してはこまめに炎上させて調整している、、という解釈でいいのかな。

裕木奈江

とう発言があることから、
まとめにもあるように、
「吉野家の常務による『生娘をシャブ漬け戦略』失言➡炎上」、
「日経新聞の『月曜日のたわわ』広告の掲載➡UN Womenからの批判➡炎上」
を意識したもののようでもあります。

この場合は、
その場に相応ふさわしい発言や表現などのゾーニングができていない。
・・ということでしょうか? これで合っているでしょうか?

その上で思ったことを書きます。

グレーゾーンが多く国内ではそれでよかったものが、時代の流れに沿って変えていかないと世界と互換性がなくなり落ちこぼれるので、世界の目に触れる場で起こった事に関してはこまめに炎上させて調整している、、という解釈でいいのかな。

裕木奈江

の部分。この解釈が面白いと思いました。
「世界の目に触れる場で起こった事」という表現がまず面白い。
逆に言えば、世界の目に触れていなければ、日本国内では炎上しないということ。
これ納得できます。
日本の騒ぎを見ていると、世界から言われるほどに、日本でも騒ぎが大きくなっています。
また、世界から言われなくなると日本の騒ぎも呼応して収まっています。
全てではないもののそういうときがあります。
日本人は混沌が嫌いなので、混沌が起きると騒ぎ出す感じです。
それで外面そとづらをとりつくろって問題視しているところがあります(ふりをしている?)。
これで分かることは、決して内発では動いていないということです。

(毎度毎度書いていることですが、ポンシューアイさんをスルーする人が内発的に道徳観で動いているようには見えないのですよね。最近ではなぜかスルーされる園子温という話題がありました)

周りの影響を受けている。
時代の変化も内発的に変化していくのではなく、外からの影響を多分に受けています。特に日本では。

蛇足として、日本(人)は、どれほど世界の価値観や道徳観に影響を与えているのだろう?とは思ってしまいます。


日本人は、基本は変化が嫌いで、「外国では」なんて人が出てきたら、嫌がってデワノカミと揶揄する一方で、
自分の国の中のものを世界と比較してガラパゴスなんて卑下しています。
ときに「世界の目に触れる場で起こった事に関してはこまめに炎上させて調整して」、
それで最終的には世界の多数派(と思われる勢力)に合わせることになります。

なんていう感想を持ちました。

※ この話は分けて続きます。

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