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「明六一揆」論(8):「詫書」

部落が農民に対して出した「詫書」(詫状)には何が書かれていたのだろうか。
『備前・備中・美作百姓一揆史料』(第5巻)所収「初屋文書」より「差入申御詫書」を転載し,内容を考察してみる。

       差入申御詫書
私共儀,従来穢多之称ニ而御平民様と格別之隔別有之,御本村様御規定御座候処,御一新ニ付而は難有御趣意ヲ以て,御天朝様ヨリ平民同様被為仰出,古来稀成趣意之程奉戴,格別相慎ミ可申之処,却而心得違ノ廉ニ奉恐入先非後悔罷在候,然ル上は土居内一同相慎ミ,向後従前之通礼譲相守,急度相勤可申候,尚御本村は不及申他村ニ至ル迄,御門内ニおいて履物等仕間敷候,且途中ニ而御出合申候節は,従前之通履物ヲ取,厚ク礼譲ヲ尽可申候間,是迄心得違之段平ニ御免被成下度,偏ニ御詫奉申上候,依之一同連印御詫一礼奉差上候処如件
明治六年五月廿九日
                  勝加茂東村  元穢多  籾吉
                               外廿名
御百姓衆中 様

次の「詫書」は錦織村が差し出したものである。

(前欠カ)
村方へハ御沙汰無之ニ付,銘々一同恐レ罷在共,何卒御違乱之思召ニ候ハヽ,今後御気ニ叶候段順可仕候,尚亦召連之思召ニ候得共,猶更違背仕間敷候間,御焼亡之義偏ニ御容怒被成下度,一村一同臥而御詫申上候,以上
明治六年 酉五月廿八日
                    第廿六区
                    久米北条郡大久保村
                    惣代
                    勘次郎以下 九十三名
各村々
御一統衆中 様    

先日訪ねた「中津井騒擾・美作騒擾」パネル展で公開されていた「詫状」がある。
これは,かつて私が拝見した原文を現代語訳したものであると思う。出典が明記されていなかったので,私も明らかにはできないが,原文の文字には一揆勢に対する恐怖と無念の思い,屈辱が滲み出ていた。

     あやまり一札の事
                 我々義
従前よりは別けて あい慎み無礼等
仕りまじく なおこの上はいかようにも
あやまりいりそうろう間 このたびおたすけ
お願い申し上げたてまつり 後日のため土井内連印
あやまり一札差し出す所 よってくだんのごとし
                 □□□之内
                      □□
明治六年五月廿九日
                  誤主(謝主)
                    十四名
                    以上連印
御旦那中様

一揆勢に襲撃された部落のほとんどが「詫書」を書いて,解放令以後の非礼・増長を詫び,「旧慣」を守って従前通りの身分(の扱い)でかまわないと誓約している。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。