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光田健輔論(39) 牢獄か楽園か(3)

光田健輔は『愛生園日記』に、「戦争末期の激しい空襲と戦いながら、食べられもしないイモヅルの配給をうけていた一般社会に比べたら、わずかながら耕作地をもち、海水で塩も作ることができる島の生活は、まだましであったかもしれない。」と書いている。この一文を読んだ人たちは何を思うだろうか。戦争の悲惨さや戦時下の暮しの苛酷さを読んだり聞いたりしている人びとは、多分そのままに「まだましであった」と理解するだろう。しかし実態はまったく違っていることを人びとは知らない。栄養失調と患者作業によって病状を悪化させ、多くの患者が死んでいった。死んだ患者の「解剖」に忙しかったのは光田である。

戦時下、日本国内ではハンセン病患者が「無らい県運動」による強制収容でどこの療養所も定員を超過し、食糧事情はもちろん住環境など生活環境は著しく悪化していった。特に、1940年は「紀元2600年」奉祝の一環として、内務省衛生局が1936年度から10ヶ年を目標とした「1万人の患者隔離計画」を厚生省が早めて達成された。5年も前倒しで達成できたということは、相当に厳しい隔離が行われたことが想像できる。

荒唐無稽な建国神話に基づき、天皇の民、「神国」の民として他民族への優越感を煽った「紀元2600年」という国家行事のもと、ハンセン病患者への隔離は強化され、隔離された患者の待遇は悪化させられた。

藤野豊『戦争とハンセン病』

天皇という絶対的な「聖」が頂点に位置する「神国」にとって、「賤」と見なされた人びとは徹底的に排除・排斥されていく。優生思想に基づく「民族浄化」である。


では、戦場におけるハンセン病患者はどうであったか。
原則としてハンセン病患者は徴兵されることはなく、徴兵検査によってハンセン病を発症していれば療養所に収容された。しかし、戦場で発症することも多かった。苛酷な自然環境や戦闘による疲労、栄養失調などがハンセン病発症の誘因となった。

戦場でハンセン病を発症した兵士は、当然のように戦地で隔離され、帰還を命じられる。藤野豊氏の『戦争とハンセン病』に、そうした兵士の証言が紹介されている。抜粋・要約して転載する。

海軍の軍属であった加東三郎はマレーのカールニコバル島で滑走路の滑走路の建設工事に従事していたが、シンガポールに移った1945年7月、ハンセン病と疑われ海軍施設部医務局に入室する。敗戦後の9月、シンガポールの海軍病院に送られる。加東が入室したのは個室であったが、便所に行くことも洗面所に行くことも禁じられた隔離生活をさせられた。10月、連合国軍の命令でマレー半島のバトパハに集結を命じられ、移動のために乗った船のなかで、三尺四方の木の檻に入れられ、上から布をかぶせられた。バトパハでは、ほかの病棟から遠く離れたゴム林のなかに造られた隔離病棟に収用され、病室の窓には金網が張りめぐらされ、隣の部屋は遺体安置室であった。
加東は1946年5月、シンガポールから病院船で帰国の途に就く。しかし、加東が入れられた船室には外から鍵がかけられ、一週間分の食料と水、それに大小便をするための石油の空き缶が与えられただけであった。そして翌日には油で汚れた機関部の物置に移された。

藤野豊『戦争とハンセン病』

藤野氏は、オーストラリアのカウラ捕虜収容所に送られ、カウラ事件に遭遇し、帰国に際して船内で受けた「特殊伝染病につき立ち入りを禁ず」と船底に隔離された状況や旧横須賀海軍病院での隔離病室の悲惨さなどを立花誠一郎から聞き取っている。また、モンゴルのウランバートルに抑留され、森林伐採の労働に使役されてハンセン病の症状を悪化させ、捕虜収容所の病院で、隣が屍体置き場兼解剖室の小屋で隔離生活を送った政石蒙からも、帰国までの孤独と絶望の日々を聞き取っている。

1943年に軍事保護院のもとにハンセン病の傷痍軍人を収容する施設の建設が決まり、1945年6月、静岡県の御殿場に開設、同年12月、駿河療養所と命名される。…光田健輔は、軍隊内のハンセン病の兵士を放置することは「癩の軍隊に蔓延することは火を賭るよりも明」として、この決定を歓迎した。

藤野豊『戦争とハンセン病』

1944年5月当時、ハンセン病を発症し傷痍軍人と認定された者で国立および私立療養所の収容患者数は377名と報告されている。戦地での軍医による診断であり、戦死者を含んでいないことを勘案すれば、実際は数倍であったかもしれない。事実、「戦争とらい」を研究していた菊池恵楓園長であった宮崎松記は、戦地での過労、飢餓、外傷、環境の変化をハンセン病発症の誘因と説明し、傷痍軍人恩給の対象となっている結核と同様に、ハンセン病も対象とすべきと主張して、これを認めさせている。この認識から宮崎は、戦後に「軍人癩」が激増すると警戒を訴えている。


ハンセン病問題で見過ごしてはならないのが、日本の占領地・植民地における隔離政策である。

近代日本は、日清戦争で台湾を、日露戦争でサハリン南部を領有するとともに、中国・遼東半島も「関東州」として事実上、支配下に置き、さらに1910年、韓国を「併合」した。…さらに、第一次世界大戦に臨んでは、ドイツ領であった赤道以北のミクロネシアの島々を占領し「南洋群島」として軍事支配、第一次大戦後、国際連盟のものでの委任統治を認められ、事実上の植民地支配をおこなった。そして、1932年に「建国」された「満州国」も、その実態は日本の傀儡国家であった。こうした広大な植民地に対し、日本は、本国と同様、いや、それ以上のハンセン病患者への絶対隔離政策を実施した。
…1916年、朝鮮総督府は全羅南道の管理下に小鹿島(ソロクト)慈恵医院を開設、さらに1934年、朝鮮総督府は慈恵医院を改組・拡張し、総督府直属の小鹿島更生園を開設した。また、台湾総督府も1930年、楽生院を開設した。法令上でも、1934年に台湾で勅令「癩予防法」が、1935年に朝鮮で総督府の制令「朝鮮癩予防令」がそれぞれ公布されるが、これらの法令は日本の「癩予防法」に準拠した内容となっている。
また、「南洋群島」においても、南洋庁は「南洋庁癩収容規定」を作成、1926年にサイパン島に、1927年にヤルート(ジャルート)のエリ島に、1931年にパラオのゴロール島に、1932年にヤップのピケル島に、それぞれ小規模なハンセン病療養所を開設していた。その後、サイパンの療養所は1938年に閉鎖されてヤップの療養所に統合されるが、アジア・太平洋戦争末期にはポナペ(ポーンペイ)にも療養所が開設されている。「南洋群島」に開設された療養所は、原則として現地の患者を収容するものであったが、戦争末期には日本人患者の日本への送還が困難となり、サイパンに「邦人仮設癩療養所」も設けられている。さらに、日本の傀儡国家「満州国」にも、1939年、「満州国立」として同康院が設立されている。

藤野豊『戦争とハンセン病』

短期間のうちに、日本の占領地・植民地に「癩療養所」が設置された。これらは日本兵のための療養所ではなく、現地の患者を隔離するための施設である。ただし、現地のハンセン病患者を救済することが目的ではなく、日本の将兵が「如何なる伝染の機会に逢着する事がないとも限らない」から現地のハンセン病患者を「適正に救癩を与ふることを考へなければならない」という光田健輔の考えに基づいた措置である。つまりは、日本兵をハンセン病の感染から守るために、現地のハンセン病患者を強制隔離するというものである。

1933年に内務省で開催された官公立癩療養所長及び管理府県衛生課長会議には、植民地である朝鮮総督府や台湾総督府、南洋庁パラオ医院、楽生院からも衛生課長や医官がそれぞれ出席している。翌年の官公立癩療養所長会議には楽生院長上川豊と朝鮮総督府の担当者が、翌々年には小鹿島更生園長周防正季が出席している。この会議において、内務省を後ろ盾に光田が絶対隔離政策の徹底を求めていることが想像できる。事実、植民地や占領地でのハンセン病政策は日本国内で実施された絶対隔離政策をほぼそのままに踏襲したものであり、警察官を動員しての強制収容、療養所内での強制断種・強制堕胎・監禁が行われた。しかも植民地統治の一環として、日本人を守るための隔離であり、その対応は苛酷なものだった。

藤野氏が『戦争とハンセン病』で紹介している植民地下の療養所の実態を抜粋・転載しておく。

…1921年生まれの男性は、15歳のとき発症し、1941年に(小鹿島)更生園に隔離収容されている。…食料は乏しく、毎日、星を見て労働に出かけ、星を見て帰るという生活であった。労働の内容は、レンガ作り、たきぎ集め、叺作りなどで、看護長は「患者10人より松脂を採る松の木1本の方が大事」といってはばからず、この強制労働で傷を負っても、働かされ続け、それが原因で、手の指10本と両足を失った。食事の量は、男性ひとりが一日、米2合とサクラ麦で、それを三回に分けて食べた。
また、クリスチャンであったので、神社参拝を拒否したら、事務所に呼び出され、何回も殴られ、気を失うと水をかけられ、また殴られ、監禁室に入れられた。その後、懲罰として断種された。監禁室では食事は握り飯が朝・夕の二回与えられるだけで、凍死する者もいた。
…隔離収容時、この女性は10歳であったが、レンガ作り、叺作り、石運びなどの強制労働を課せられた。…こうした強制労働により、手足が凍傷となり、それが原因で、手の指10本と両足を失った。食事は、女性ひとりが一日、米1.5合、子どもは米1合であった。創氏改名をさせられ、毎月一回、1日に神社参拝、15日に周防園長の銅像への参拝を強制された。

藤野氏は、「…お会いした、日本の植民地時代から小鹿島に隔離されてきた方々は、皆、後遺症が重かった。その事実は、日本の隔離が過酷であったことの証である。ハンセン病患者への差別、植民地民族への差別により、韓国のハンセン病患者に対しては、二重の人権侵害があったという事実を認めざるを得ない」と述べている。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。