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光田健輔論(33) 善意と悪意(3)

森本幹郎氏は『足跡は消えても-ハンセン病史上のキリスト者たち』の「自序」において、「らい予防法」廃止前後に声明を発表した「日本らい学会」、日本キリスト者医科連盟、真宗大谷派の各発表から引用して、次のように述べている。まず、森本氏の各発表の引用を抜粋しておく。

救癩の旗印を掲げて隔離を最善と信じ、そこに生涯を賭けた人の思いまでを、私たちは踏みにじる権利がない。(日本らい学会の「らい予防法についての学会の見解」)

キリスト者医療従事者が従来の人権無視のらい対策に対し、無関心であったこと、傍観ないし黙認していたこと、あるいは変革していく力となりえなかったことを認め反省する必要がある。これは、ハンセン病医療に関わった先輩たちを責めるのではない。私たちも差別と偏見を助長してきた責任を等しく負うべきであり、申しわけなかったと心からの反省を表明する。(日本キリスト者医科連盟の「らい予防法廃止のアピール」)

…そこには不都合なものを排除することで、排除した側だけの“安全な社会”ができるとする社会体質が背景として存在していました。…国家による甚だしい人権侵害を見抜くことができなかったといわなければなりません。…結果として、これらの布教のなかには、隔離を運命とあきらめさせ、園の内と外を目覚めさせないあやまりを犯したものがあったことも認めざるをえません。(真宗大谷派の「謝罪声明」)

森本幹郎『足跡は消えても-ハンセン病史上のキリスト者たち』

各発表には問題点も多々あるが、ここで全文を掲載して批判することは目的ではないので別項にて行いたいが、森本氏の引用に関してだけでも大きな問題が内在していることは一読で明白だろう。

「日本らい学会」の見解については、「救癩の旗印」を<目的>とすれば、その<手段>が「隔離」であるが、まさしく<目的>のために<手段>を正当化していることを肯定する見解である。それを「生涯を賭けた人の思い」という心情面を持ち出して免罪しようとする。「生涯を賭けて」その人たちが「踏みにじった」患者の「権利」についてはどう考えているのだろうか。偽善的な論理を持ち出して「自己批判」から逃げているだけでしかない見解だ。「日本らい学会」の医師の「体質」は、彼らが守ろうとする先輩医師の傲慢さと無責任さと同じである。自分たちのことしか見えていない。

「日本キリスト者医科連盟」のアピールにおいては、あえて「先輩たちを責めるのではない」と断って、自分たちの責任として「反省」を表明している。だが、日本のハンセン病対策に、医師・看護婦(師)・職員・MTLなどさまざまな形で深く関わったキリスト者を検証し、その責任を追及すべきではないだろうか。「先輩たち」が無検討・無批判に光田ら絶対隔離主義者、賀川豊彦の優生思想を鵜呑みにして、隔離政策に積極的に参画した結果、どれだけ多くの患者が家族と引き裂かれ、諦めの境地に追い込まれたか、それを慰撫することで布教活動に成果を上げたキリスト者を、私は決して許すことができない。それゆえ、荒井英子氏は次のように批判する。

そもそも「救癩」という言葉には「救う者」と「救われる者」、「与える者」と「与えられる者」といった、上下・貴賤・浄不浄関係が発想の前提としてある。ことにキリスト教「救癩」史は、これまで「救う側」の視点で取り上げられることが多く、逆に「救われる側」であったハンセン病患者たちにとって、「救癩」とは何であったのか、「救癩」事業に携わっていた人々はどう映っていたのかは、必ずしも明らかにされていない。このことは、「らい予防法」が関係者の深い反省のもとに廃止されたこの節目の年に当たっても、一部のキリスト者医師を除き、明治以来「救癩」を看板にしてきたキリスト教団体あるいは個人からは、この問題に対して何らの発言も見られないこととも関連している。

荒井英子『ハンセン病とキリスト教』

「真宗大谷派」の謝罪声明では、自らの反省を正直に述べているが、自らがなぜ「人権侵害を見抜くことができなかった」のかを問うてはいない。
「隔離を運命とあきらめさせ」たことが、宗教の最大の罪であると私は思っている。「慰安」の名目の「布教」には、どこか他人事の視線を感じてしまう。

『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』(2004年)によれば、入所者の約88%が何らかの宗教団体と関わりを持ち、国立療養所の敷地内には寺院や教会など80近い宗教施設が建てられている。私も最初に長島愛生園を訪ねたとき、さまざまな宗教施設が園内に建てられていることに驚いた。入園の際に、園名(偽名)と宗教の所属先を決められたという話も聞いた。それは「葬儀」のためであると教えられたが、妙な違和感を覚えた。

3団体の表明を受けて、森本氏は次のように述べる。

本書に取り上げたキリスト者の多くは、ハンセン病政策そのものについては問題意識を持つこともなく、そのままこれを「所与」として受け止めていたようである。そのことに関する限り、同時代の平均的な日本人と同様であった。しかし、偏見と差別の中で生きているハンセン病の患者を傍観せず、無視せず、患者とともに生きる道を選んだという点において、同時代の平均的な日本人とははるかにちがっていた。それは、多くの場合、家族からも別れた、独り行く道であり、「らい対策を変革していく力」にも劣らない「内なる力」が必要であった。

森本幹郎『足跡は消えても-ハンセン病史上のキリスト者たち』

「当時の平均的日本人」と比較することに何の意味があるのだろうか。差別や偏見で「傍観」されたり「無視」されたりする患者を救済するために尽くしたことを強調するためだろうか。確かに、あの時代において、彼らの献身と奉仕には頭が下がる。尊敬と感謝を覚える。
しかし、そうだからといって彼らの免責にもならず、彼らを正当化することもできない。問うべきは、なぜ彼らが「絶対隔離政策」を「傍観」して従ったのか、患者の人権侵害を「無視」するどころか、「無らい県運動」などに積極的に関与し、強制収容に加担したのかである。

「内なる力」とは何であろうか。世間の差別や偏見に負けず、ハンセン病対策に献身・奉仕する「覚悟」や患者に寄り添い「慰安」する恩情なのか。なぜ「らい対策を変革していく力」と比べる必要があるのか、比べて「劣らない」と言明する根拠は何なのか。「劣らない」から免責されるのだろうか。比べるべきものではないし、比べられるものでもないだろう。


宗教がハンセン病問題に及ぼした功罪に関してキリスト教、特に日本MTLの役割について追及してきたが、ここでは「真宗大谷派光明会」のハンセン病対策に果たした役割を整理しておきたい。

1931年1月、「大谷派光明会」の創立委員会が開催され、同年6月に発会式が執り行われた。総裁には法王の妻である大谷智子、会長には宗務総長大谷瑩誠が就任した。相談役には「癩予防協会」会長渋沢栄一、内務省の高野六郎、そして光田健輔などが就任している。彼らは国の絶対隔離推進の中心人物である。このメンバーを見ても、光明会は国家の方針に従う協力支援団体として創立されたことが明らかである。それは光明会設立の趣旨にも表れている。

現に苦悩に悶へ悲痛に泣ける多数の同胞を救護し、之に慰安を与ふると共に、一方国民に対し癩そのものに関する正しき知識を普及し、以つて癩予防の方法を講じ、我が国より癩を根絶することは人道上からいふも、国民保健上からいふも、又文明国の体面上からいふも、極めて切要なることであらねばならぬ

『癩絶滅と大谷派光明会』

「慰安を与ふる」を除けば、その目的は国家の意向さらには光田健輔の考えそのものである。光田の政治力というべきか人脈というべきか、目的のためには何でも利用する巧妙さに感心する。

具体的な活動としては、各療養所への視察や慰問、「同情金」の募集、療養所の施設への寄付、啓発記事の『真宗』誌掲載、リーフレットの作成、「癩絶滅小ポスター」の派内全寺院への掲示要請など、活発な動きを行っている。

訓覇浩「無らい県運動と宗教」『ハンセン病 絶対隔離と日本社会』

光明会の活動を集約すれば、「世論喚起」「慰安教化」「資金援助」であり、これらは「癩絶滅」の目的を「宗教的救癩」活動として位置づけられる。そして、これらの活動は光田らの絶対隔離政策を積極的に推進するものとして大いに機能した。特に「世論喚起」としては、全国にある真宗大谷派の寺院の僧侶を思想教化することで檀家はもちろん地域住民に啓発することができる。

毎月のように宗派機関誌『真宗』に世論喚起の記事を掲載している…基調としては、国家の立場からの隔離政策の重要性の主張と、宗派からの宗教的観点からの隔離推進の訴えが呼応し合うように、毎号大きな見出しがつけられ、機関誌の紙面を埋めている。これを毎号読むこととなる全国の住職や寺院関係者は、否が応でも本山からの訴えとして大きな影響を受けたであろうことは想像できる。
さらに、全国の教務所長を集めた会議においても趣旨の徹底を図り、全職員に対してもハンセン病問題の研修会を開催、徹底した組織的取り組みが行われている。
そして、「隔離推進」と「同情慰安」という光明会の理念を掲げた「同情金」の募集であるが、寄付者の名前と金額が毎月公表されている。募集期間と定められたわずか三カ月の間に、全国から2000近い大谷派寺院が呼びかけに応じている。

訓覇浩「無らい県運動と宗教」『ハンセン病 絶対隔離と日本社会』

日本MTLも講演会や機関誌によって啓発活動を積極的に展開し、「救癩」事業の一環して恵泉女学園など全国のキリスト教主義女学校に「献金」を呼びかけている。真宗大谷派光明会も同じ役割を果たしている。

宗教がもつ「力」とは、同じ教義を信じ、「上意下達」の構造をもち、しかも信徒数は膨大である。オウム真理教や旧統一教会でも明らかなように、この「力」がマインドコントロールによる「信じ込み」「思い込み」と、自他の救済の名目による「献金」を生み出す。しかも、信者はその「宗教」(信仰)は「真理」であり、その「言行」は「善意」であると信じ込んでしまう。

訓覇氏は、次のように述べている。

国が宗教の力を借りてなそうとしていたことは…。それは、療養所内外に対する、「隔離はハンセン病患者に対する救済である」ということの周知であったと考える。ハンセン病隔離政策が国民に受け容れられたのは、ひとつは国辱論、すなわちハンセン病患者は国の辱であり、その存在は大きく国益を損なうものという考え方である。これは市民のハンセン病患者に対する差別的忌避感とつながり深く広く浸透した。
しかし、国辱論だけで隔離政策の正当性・必要性を、国民にもハンセン病患者にも納得させることは困難であると国は考えていたのではなかろうか。人格を否定し存在を排除する方向しか持たない政策は、どこかで国民に抵抗感をもたれるということを感じていたとはいえないか。とくに大谷派光明会が世論喚起で強調したのはこの部分である。決して国辱論からは生み出せないこの「救癩」という大義を隔離政策に取り入れるために不可欠であったのが、「宗教的救癩」という概念であったのではなかろうか。

訓覇浩「無らい県運動と宗教」『ハンセン病 絶対隔離と日本社会』

国がそこまで考えていたかはわからないが、当時、国の主導は内務省衛生局であり、その予防課長が光明会の相談役に就任していた高野六郎である。高野は光田健輔と昵懇の間柄であり、光田の絶対隔離政策を支持・協力した人物である。高野が1926年6月に『社会事業』に発表した「民族浄化のために-癩予防策の将来-」に、次の一文がある。藤野豊氏の『「いのち」の近代史』より転載する。

こんな病気を国民から駆逐し去ることは、誰しも希ふ所に相違ない。民族の血液を浄化するために、又此の残虐な病苦から同胞を救ふために、慈善事業、救療事業の第一位に数へられなければならぬ仕事である。

高野は医学者であり、衛生的な内務省式改良便所を完成させるなどの業績があるが、ハンセン病を「伝染病」と認識しながら、「民族の血液を浄化する」と表現して、ハンセン病患者の絶滅を「第一位」の「仕事」と言明している。高野の論を受けて、翌月の『社会事業』に「癩予防撲滅の話」を執筆したのが光田健輔である。その論文の中で光田は「血統の純潔を以て誇りとする日本国が、却って他の欧米諸国より世界第一等の癩病国である」と書き、光田も高野と同じく、ハンセン病を「血統の純潔」を汚すものと表現している。
さらに、日本MTL理事長の小林正金は、同じく『社会事業』(1926年10月~12月)に、高野や光田の論を受けて、「癩病同情の先駆者」と題して連載しているが、その一文に「汚れたる民族を浄化する」と書いている。

藤野氏は「高野六郎・光田健輔・小林正金・三上千代の主張に共通するのは、ハンセン病の根絶を『民族浄化』と位置付けていることである」と述べている。つまり、ハンセン病を根絶するためには、ハンセン病患者を絶滅させて「民族浄化」をはかる必要があり、そのためには国内すべてのハンセン病患者を「絶対隔離」して、彼らが死滅するまで閉じ込めておく。絶滅の要件は子孫を根絶やしにすることであり、それを「断種・中絶」により完遂する。これが彼らの考えである。

私は、訓覇浩氏の推察も一理あると思うが、それは結果論であって、光田や高野は「宣伝(啓発)」と「寄付金(募金)」を目的として真宗大谷派に近づいたのではないかと考えている。
元々、光田健輔は、1914年12月、中央慈善協会長であった渋沢栄一が開いた癩予防談話会で「癩病予防に就て」と題する講演を行い、その中で「患者に物質的・宗教的慰安を与える」「光明皇后の故事にならい光明会を設立する」等を提言している。光田の構想した「光明会」は「貴族富豪」などからの援助・支援を目的としたハンセン病対策の組織であり、後に「癩予防協会」として具体化された。

少し意地悪な見方をすれば、日本MTLの積極的な協力・支援に味をしめた光田が真宗大谷派を同様に利用しようと考えたとも受け取れる。なぜなら、光田は外国人神父や宣教師によるキリスト教主義療養所ヘの対抗意識を強くもっていたからだ。1915年に内務省に提出した「癩予防ニ関スル意見」において、光田は光明会の意義について「癩病救済ノ慈光ハ外国ノ事例ニ習フ迄モ無ク已ニ我ガ朝一千年ノ昔ニ於テ 光明皇后ノ御聖旨ニ現ハレタリ」と説明し、ハンセン病患者への慈しむ思想は、日本の皇室にもあると述べている。また、光田の影響を強く受けている服部ケサと三上千代も、聖バルナバ医院を辞職する理由を「日本のライ患者は日本人自らの手で」と述べている。光田も服部や三上も、当時の軍国主義的ナショナリズムを背景に強く持っていたのも確かである。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。