見出し画像

「弾左衛門」制度

「弾左衛門」は,人名であると同時に職名であり,制度である。塩見鮮一郎氏は『弾左衛門とその時代』に,次のように書いている。

「弾左衛門」というのは職掌をあらわす名称で,武家身分の最下層にされていたが,ケガレ意識がつよまった時代に武士階級から切り離され,「賤民」の地位に置かれた。そのように考えれば,あちこちの城下に「弾左衛門」がいてもおかしくないので,そのうちのひとり,江戸にいた矢野氏が,家康によって「弾左衛門」に採用された。
もっとも由緒がある「弾左衛門」は,鎌倉極楽寺に住んだ由井弾左衛門である。由比ヶ浜を職場にしたので,この名がついたが,頼朝のころに摂津の火打村からきたことになっている。
(「はじめに」より)

「弾左衛門」の「左衛門」も「左衛門尉」に由来する名前であれば,武家身分につながり,その職掌にも関係するかもしれない。

「衛門府」とは,律令制における官司で,宮城の門の警備を担ってきた。つまり,宮門を守衛し通行者を検察することが職掌であった。また,検非違使庁も衛門府内に設置され,衛門府官人が兼務した。

「検非違使」とは,非違(=非法・違法)を検察・糾弾するという意味の職名で,原則的に「左右衛門府」の役人が宣旨によって兼帯・出向する令外の官職である。主に京都の治安維持や衛生などの民政を担当した。
具体的には,不法行為・禁制違反や祭日の濫行の取り締まり,犯人追捕,未納税や贓贖物の徴収,臨時の要人の護衛,また年中行事・祭事・行幸といった臨時の行事で催場や道路の清掃を行った。
さらに,検非違使庁は,河原者・散所者・非人など清目の機能を担う人々の統轄官庁でもあった。

このことから「衛門府」や「検非違使」の流れをくむ武家に関係があると考えるならば,塩見氏の見解も一理ある。また,「弾」には「(罪を)糺す」の意味があり,律令制における「弾正台」とも関係があるかもしれない。

「弾正台」とは,中央役人の罪悪を糺し,一般の非道や風俗を取り締まった役所であったが,嵯峨天皇時代に検非違使が創設されて以来,徐々に権限を奪われ有名無実化した。

もちろん,字面からの推測であるが,弾左衛門が警察の下級機関のような職掌をつとめていることや,弾左衛門の本来の役目(役務)が町奉行の手伝いである警備や捕方,牢番,処刑などお仕置き御用に関するものであることから,本質的に中世の「清目」につながることは明らかである。
-----------------------------------
塩見氏の『弾左衛門とその時代』より,少しまとめてみておく。

【弾左衛門の居住地】
「浅草新町」とか「囲内」と呼ばれる居住地は,今戸橋界隈に集められた二,三十の寺に囲まれるようにある。南北に細長い一万四千四十坪(約46332㎡)の土地が塀と堀に囲まれている。江戸の府内で長吏が住んでよいのはここだけである。

弾左衛門の住居は,江戸の処刑場が日本橋町→鳥越→三谷橋(新鳥越橋)→小塚原と移転するに従い,日本橋尼店→鳥越→新町(今戸橋北)と移してきた。

囲内には,寛政十二年(1800)には,二百三十二軒の家があり,猿飼が十五軒の家を持っていた。明治元年(1868)に弾直樹が調べたところでは四百十七軒になっていた。

弾左衛門の家は役所を兼務しているので,敷地が七百四十坪もあった。囲内には,住民の生活に必要な銭湯や店,寺子屋などがあり,牢や宿もあった。
新町は,南から上町・中町・下町と呼ばれ,弾左衛門の役所兼居宅は上町にあり,その隣に家老職(手代代表)の石垣元七の家があった。町奉行は被差別民の裁判と刑の執行を弾左衛門役所に任せていたので,役所の南側には「お白州」が設けてあり,牢も作られていた。
また,在方から訴え出る被差別民が宿泊する公事宿も囲内にあった。
【弾左衛門の配下と仕事】
弾左衛門役所には,石垣元七を代表に手代が七人,役人が六十人いた。手代は弾左衛門より給金を与えられていたが,他の者は自らの仕事を持って生計を立てていた。彼らは地所持ちで,生業としては,革問屋や太鼓屋,革細工などの皮革業と,「灯芯」の製造と販売であったと考えられる。

この役人のうち,さらに主だった十四人が「組頭」となり,「平之者(手下)」を組織していた。平之者は長屋住まいで,革細工や灯芯作りを生業に,役所から命じられる「お仕置き御用」に従事していたのである。
【灯芯作りと金融業】
「灯芯」は藺草から作る。藺草は花茣蓙や畳表になったり草履になったりするが,草の周りの緑の皮をむいて中の髄を取り出し,この「中子」と呼ばれるこの白い芯に和紙を巻いて灯芯にする。灯芯は,蝋燭の芯にしたり,油皿に入れて先端に火を灯す。

弾左衛門は,この灯芯製造と販売の権利を独占していた。この灯芯販売の独占権と,弊牛馬処理の独占権による皮革業によって莫大な資金を手にした弾左衛門は,町人や武士,大名にまで金を貸していた。
【非人との関係】
明治元年に弾直樹が書いた江戸の非人の人数

1.浅草(車善七)の手下三百六十三軒(小屋頭百十一軒)
2.品川(松右衛門)の手下百四十三軒(小屋頭四十二軒)
3.深川(佐助)と木下川(文次郎)の手下六十七軒(小屋頭二十二軒)
4.代々木(久兵衛)の手下三十七軒

このうち,浅草在住の非人が弾左衛門の職掌である「お仕置き御用」に動員された。江戸に流入してくる「潰れ百姓」を追い払ったり,無宿の狩込みなどの仕事をさせられた。小塚原の番小屋には六人の新町の者(「谷の者」)と三人の非人が詰めていた。また,「溜御用」として,重病人や十五歳未満の囚人,女囚を収容する施設である「溜」の番も命ぜられた。

品川にも「溜」があり,鈴ヶ森の刑場の手伝いも命ぜられていた。非人頭の松右衛門の屋敷は京浜急行青物横丁駅に接した品川寺のそばにあった。
弾左衛門は,非人頭と対立しながらも彼らを配下に統括し,革口銭を徴収していた。革口銭は雄の牛皮一枚につき銀四匁,雌は三匁,馬は二匁であった。非人頭が集めて,年頭の挨拶に弾左衛門役所に出頭するときに上納した。

このとき,「抱非人」の人別帳を持参し,新たに「掟証文」に署名するのが慣わしであった。

「掟証文」の項目
1.盗人やキリシタンは訴えます。
2.博打をする者や怪しい者はそばにおきません。
3.生類を大切にし,捨子は報告します。
4.鎗などはもちろん,脇差も刀も持ちません。
5.木綿のほかは着ません。
6.仏事や祝事は目立たないようにします。
7.正しく調べて人別帳を出すよう場主に申し付けます。
  生死の増減や逃亡についてはすぐ知らせます。
8.場役の者が命令にそむかないようにします。
9.配下の非人に細工や商売はさせません。
10.毎月一度,髪を切ります。
11.頭巾や覆面をしません。
12.火の用心をします。
13.乞食に出るときタバコは持ちません。
14.抱えている非人に無茶な命令はしません。
15.自分の抱えている非人のほか,みだりに非人をそばにおいたりしません。

非人は原則的には商いを禁じられて,物乞いのみで生計を立てていた。「抱非人」は,非人頭が統括する組に所属していた。町人や百姓が落ちぶれて浮浪人となったのを「野非人」といい,取り締まりの対象であった。
街頭での芸によって生計を得ていた「乞胸頭」は,身分は町人であったが非人頭の支配を受けていた。
【在方の長吏】
在方である地方の被差別民の仕事は,次のものがあった。
1.弊牛馬の処理
2.番役
3.お仕置手伝い
4.農業のほか草履作り など

番役は,農民に頼まれて田畑の番や水番,火の番などをすることで,非人もまたこの仕事についている。

各村には,被差別民の頭として「長吏小頭」がいて,代々世襲して配下を統轄している。その下に,「小組頭」がおり,さらに「組下」(平之者)がいる。在地の非人は,この「長吏小頭」に支配されていた。

「小頭」の仕事は,年始に浅草新町の弾左衛門役所に出かけて役銀を納め人別帳を出すこと,村役人に年貢を納めること,新町役所や村役人からの指図を配下に伝えて勤めること,小組頭の任免などである。人数は百人ほどであった。このうちから,実力のある者が「大組小頭」となった。その数は十二名ほどである。

地方に住む被差別民は,革口銭のほか,家別役銀を弾左衛門役所に納めなければならなかった。長吏で,一軒につき五匁,非人は三匁ほどである。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。