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「重監房」に学ぶ(7) 長島事件その後

今まで長島愛生園で起こった「長島事件」(1936年)について断片的ではあるが、その経緯と結果、影響と問題点などについて述べてきた。今回、光田健輔に関する私論を書くにあたり、関係書を読み直していて、「長島事件」の影響について、特に当時の世間が、それも関わりが深い人間がどのように思っていたかを伝えておくべきであると思うに至った。

「長島事件」が「重監房」設置の直接の要因と考えられるが、それに至る経緯についてまとめておきたい。

事件発生当初に、光田は新聞の取材に次のように語っている。

どこまでも愛に立脚している建前で、平素から自由を認め弾圧など一切していないのです、患者の大部分のものはよく愛生の精神を知っていてくれているが、最近患者数の膨脹でたまたま少数不逞の徒が交り彼らのわがままから起こったことである、群集心理の動くところ恐ろしいものがあるので慎重な態度をもって一日も早く解決する

(『大阪朝日新聞』8月15日)

藤野豊氏は、この時の光田の言動について、次のように分析している。

光田は事件を「少数不逞の徒」の「わがまま」から起こったと決めつけている。そして「平素から自由を認め弾圧など一切していない」と豪語もしている。そして、新聞記者をまえに、事件の渦中でも働いている医官・職員を指差し、「愛生の精神はあれだ、働けるものはだれも働き収入は誰にも分配せねばならぬ、問題そのものは何でもないが水疱に帰した愛生精神、再興が何より私を苦しめる訳だ」と大見得を切った(『大阪朝日新聞』岡山版 8月18日)。光田は何としても「愛の殿堂」というイメージを守らねばならなかったのである。

藤野豊『「いのち」の近代史』

当初は「患者側から直接にことを起こすまでの事情を聴きよく調査した上患者側の要求することに理屈があり、愛生園としても根本的問題が伏在しているならば内務省としても善処する考えです」(内務省衛生局長)、「相手は宿命の児で現世の希望を失ったものであるから、出来得るだけ温情主義を持って臨み」(岡山県警察部長)といった、患者側の要求に耳を傾け、できるだけ穏便に解決しようという態度であった関係者も、光田の狡猾で偽善的な説明を信じ、「事態がこれ以上悪化すれば遠慮なく患者を検束する」「患者の中には極左分子もをり内務省は事態を憂慮している」(内務省)と強硬方針に態度を改めていった。

事件後、愛生園当局は「長島愛生園患者騒擾事件顛末書」をまとめたが、そこでも事件は一部患者の「各種ノ不平不満又ハ野心ノ凝結セル反抗運動」であり、「暴力ヲ以テシ遂ニ全患者ヲシテ強テ渦中ニ投ゼシメタル」ものと断定し、その「元凶」に「社会主義者ノ嫌疑極メテ濃厚ナル」者をあげている。そして、今後の対策として「特別ナル患者監禁場ヲ設ケラレタキコト」「癩患者ニ対スル行刑政策ノ徹底ヲ期セラレタキコト」を求めた。光田と愛生園当局はこの事件の背後にある隔離の現実への患者の不満を見ようとはせず、ただ事件の全責任を患者の側に押しつけ、患者への弾圧強化をのみ今後の教訓としたのである。

同上

光田は回想録『回春病室』(1950年)『愛生園日記』(1958年)において、「長島事件」について「政党的な戦術訓練を受けていた患者」あるいは「ギャングのような金比羅さんのライ部落の住人たち」が煽動した事件であると断定し、自らの患者を犠牲にした運営および非人道的な隔離政策に原因があったことに一切の反省もない。責任転嫁と自己正当化に終始している。

ロシア革命(1917年)の影響、経済状況の悪化などを背景に労働運動が激化していくなかで、その理論的支柱である社会主義思想も民衆の中に拡がっていった。その一方で国家は軍国主義の歩みを加速していき、軍備拡張に伴う軍事予算の増大は国民への負担となり、社会福祉的な予算は削減を余儀なくされた。ハンセン病療養所およびハンセン病関連の予算も制限される反面、ハンセン病患者はますます定員を大幅に超過して収容されていく。

1925(大正14)年、治安維持法が公布され、28年には改正される。国体の変革・私有財産制度の否認などを掲げる社会主義思想を弾圧する目的で制定された法律である。個人及び団体(結社)の活動を取り締まるとともに、社会主義思想を危険思想であると国民に喧伝した。
こうした時代背景があって、光田や愛生園当局の「一部左翼思想ヲ有セル患者ノ策動」「吾ガ国体ト相容レザルモノ」のといった証言が、新聞紙上では「社会主義者ノ嫌疑」「極左分子」と確定的に書かれれば、政府側の内務省や警察署だけでなく国民の多くも鵜呑みにしてしまうだろう。

権威(立場や肩書き)・権力(支配)をもつ人間の言動は、虚偽や粉飾さえ周囲の人間には<真実(事実)>と納得させてしまう。まして、その人物に世話を受けていたり、尊敬の念が強かったりすれば、黙して服従することもある。

光田健輔の伝記を執筆した内田守や『救癩の父 光田健輔の思い出』を執筆・編集した桜井方策、神谷美恵子など光田の信奉者たちは、異口同音、絶対隔離さえ患者のためであり、患者に接する光田の献身的な姿を賛美する。彼らは光田健輔を見ているのであって、患者を見ていない。光田を通してしか患者を見ていないから、いつしか光田と同じ思考に陥ってしまっている。

「長島事件」を報じた新聞各社の記事によってハンセン病患者や隔離政策を知った人間も少なからずいたはずである。現在と違って世間は狭く、情報を得る手段は新聞や雑誌、人の口(噂)である。人は容易く、そのままに信じ込む。噂には尾ひれがつく。


宗教とハンセン病問題に関しては別項にて取り上げようと考えているが、ここでは「日本MTL」(Mission To Lepers)が「長島事件」をどのように捉えていたかを見ておきたい。
 
日本MTLは,1925年 安井哲子,賀川豊彦,斎藤惣一,光田健輔を発起人として設立されたキリスト教団体である。伝道,宣伝,慰問,ハンセン病医療への寄付等を目的としているが,教団活動として隔離事業の完成を目指し,積極的に無癩県運動へも参加した。

事件発生後、日本MTLは幹事の鈴木恂を長島愛生園に派遣し、光田と職員およびその家族を見舞っている。そして機関誌『日本MTL』に、愛生園における患者定員の超過によってハンセン病対策は前進していると述べ、「今回の不祥事は之れを遺憾とするにしても、之れ迄の苦心と、犠牲とに対して深く感謝の意を寄せたいと思ふ」と愛生園当局を支持する旨を記載している。
さらに、童話作家であり関西MTL理事の塚田喜太郎は「『親の心、子知らず』これが、癩病院の騒ぎです」と、実態を知らずに、的外れの激しい非難を書いている。
さらに全生病院の『山桜』や北部保養院の『甲田の森』にも執筆し、「非は患者にある」と断じて愛生園の患者に対する攻撃を続けた。

井の中の蛙大海を知らず,とか。実際井の中の蛙の諸君には,世間の苦労や不幸は判らないのであります。随って,如何に諸君が幸福であるか,如何に患者が満ち足れる生活をさせて貰ってゐるかを知らないのであります。蛙は蛙らしく井の中で泳いで居ればよいのであります。生意気にも,大海に出様等と考へる事は,身の破滅であります。又,大海も蛙どもに騒がれては,迷惑千万であります。身の程を知らぬと云ふ事ほど,お互いに困った事は無いのであります。(中略)患者諸君が,今回のごとき言行をなすならば,それより以前に,国家にも納税し,癩病院の費用は全部患者において負担し,しかる後,一人前の言ひ分を述ぶるべきであると。国家の保護を受け,社会の同情のもとに,わずかに生を保ちながら,人並みの言い分を主張する等は,笑止千万であり,不都合そのものである。

( 「長島の患者諸君に告ぐ」『山櫻』18巻10号 1936年)

関西MTLの理事がこのような嘲りを患者に向けて浴びせる当時,世間がハンセン病患者に対してどのように考えていたかは伺い知ることができるだろう。彼の認識は、療養所の外においてハンセン病患者と関係する者と大差はなく、彼らは患者への「同情」が裏切られたとばかりにさまざまな雑誌に書き立てた。こうして、世論も時流も光田や国家の「絶対隔離」推進に流れていく。その流れ着いた先が「重監房」であった。

インターネットの普及と発展により、誰もが自由に私見を発表できる。その結果、個人情報の流出から誹謗中傷・罵詈雑言、個人攻撃から犯罪行為まで、あらゆることが簡単にネットを使って行える時代になった。この当時より遥かに安易に「世論操作」「情報操作」が可能である。だからこそ、情報の信憑性を確認すること、背後の企みを見抜くこと、真偽の判断を正確に行うことが求められている。

最後に、藤野氏が紹介している北条民雄の塚田に対する反論「井の中の正月の感想」を掲載しておきたい。

諸君は井戸の中の蛙だと,癩者に向かって断定した男が近頃現れた。勿論,このやうな言葉は取り上げるにも足るまい。かやうな言葉を吐き得る頭脳といふものがあまり上等なものでないといふことはもはや説明の要もない。しかしながら,かかる言葉を聞く度に私はかつていったニイチェのなげきが身にしみる。「兄弟よ,汝は軽蔑といふことを知ってゐるか,汝を軽蔑する者に対しても公正であれ,といふ公正の苦悩を知ってゐるか」全療養所の兄弟諸君,御身達にこのニイチェの嘆きが分かるか。
しかし,私は二十三度目の正月を迎えた。この病院で迎える三度目の正月である。かつて大海の魚であった私も,今は何と井戸の中をごそごそと這い回るあはれ一匹の蛙とは成り果てた。とはいへ,井のなかに住むが故に,深夜沖天にかかる星座の美しさを見た。
大海に住むが故に大海を知ったと自信する魚にこの星座が判るか,深海の魚類は自己を取り巻く海水をすら意識せぬであろう,況や

( 「井の中の正月の感想」『山櫻』19巻1号 1937年)


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。