「重監房」に学ぶ(7) 長島事件その後
今まで長島愛生園で起こった「長島事件」(1936年)について断片的ではあるが、その経緯と結果、影響と問題点などについて述べてきた。今回、光田健輔に関する私論を書くにあたり、関係書を読み直していて、「長島事件」の影響について、特に当時の世間が、それも関わりが深い人間がどのように思っていたかを伝えておくべきであると思うに至った。
「長島事件」が「重監房」設置の直接の要因と考えられるが、それに至る経緯についてまとめておきたい。
事件発生当初に、光田は新聞の取材に次のように語っている。
藤野豊氏は、この時の光田の言動について、次のように分析している。
当初は「患者側から直接にことを起こすまでの事情を聴きよく調査した上患者側の要求することに理屈があり、愛生園としても根本的問題が伏在しているならば内務省としても善処する考えです」(内務省衛生局長)、「相手は宿命の児で現世の希望を失ったものであるから、出来得るだけ温情主義を持って臨み」(岡山県警察部長)といった、患者側の要求に耳を傾け、できるだけ穏便に解決しようという態度であった関係者も、光田の狡猾で偽善的な説明を信じ、「事態がこれ以上悪化すれば遠慮なく患者を検束する」「患者の中には極左分子もをり内務省は事態を憂慮している」(内務省)と強硬方針に態度を改めていった。
光田は回想録『回春病室』(1950年)『愛生園日記』(1958年)において、「長島事件」について「政党的な戦術訓練を受けていた患者」あるいは「ギャングのような金比羅さんのライ部落の住人たち」が煽動した事件であると断定し、自らの患者を犠牲にした運営および非人道的な隔離政策に原因があったことに一切の反省もない。責任転嫁と自己正当化に終始している。
ロシア革命(1917年)の影響、経済状況の悪化などを背景に労働運動が激化していくなかで、その理論的支柱である社会主義思想も民衆の中に拡がっていった。その一方で国家は軍国主義の歩みを加速していき、軍備拡張に伴う軍事予算の増大は国民への負担となり、社会福祉的な予算は削減を余儀なくされた。ハンセン病療養所およびハンセン病関連の予算も制限される反面、ハンセン病患者はますます定員を大幅に超過して収容されていく。
1925(大正14)年、治安維持法が公布され、28年には改正される。国体の変革・私有財産制度の否認などを掲げる社会主義思想を弾圧する目的で制定された法律である。個人及び団体(結社)の活動を取り締まるとともに、社会主義思想を危険思想であると国民に喧伝した。
こうした時代背景があって、光田や愛生園当局の「一部左翼思想ヲ有セル患者ノ策動」「吾ガ国体ト相容レザルモノ」のといった証言が、新聞紙上では「社会主義者ノ嫌疑」「極左分子」と確定的に書かれれば、政府側の内務省や警察署だけでなく国民の多くも鵜呑みにしてしまうだろう。
権威(立場や肩書き)・権力(支配)をもつ人間の言動は、虚偽や粉飾さえ周囲の人間には<真実(事実)>と納得させてしまう。まして、その人物に世話を受けていたり、尊敬の念が強かったりすれば、黙して服従することもある。
光田健輔の伝記を執筆した内田守や『救癩の父 光田健輔の思い出』を執筆・編集した桜井方策、神谷美恵子など光田の信奉者たちは、異口同音、絶対隔離さえ患者のためであり、患者に接する光田の献身的な姿を賛美する。彼らは光田健輔を見ているのであって、患者を見ていない。光田を通してしか患者を見ていないから、いつしか光田と同じ思考に陥ってしまっている。
「長島事件」を報じた新聞各社の記事によってハンセン病患者や隔離政策を知った人間も少なからずいたはずである。現在と違って世間は狭く、情報を得る手段は新聞や雑誌、人の口(噂)である。人は容易く、そのままに信じ込む。噂には尾ひれがつく。
宗教とハンセン病問題に関しては別項にて取り上げようと考えているが、ここでは「日本MTL」(Mission To Lepers)が「長島事件」をどのように捉えていたかを見ておきたい。
日本MTLは,1925年 安井哲子,賀川豊彦,斎藤惣一,光田健輔を発起人として設立されたキリスト教団体である。伝道,宣伝,慰問,ハンセン病医療への寄付等を目的としているが,教団活動として隔離事業の完成を目指し,積極的に無癩県運動へも参加した。
事件発生後、日本MTLは幹事の鈴木恂を長島愛生園に派遣し、光田と職員およびその家族を見舞っている。そして機関誌『日本MTL』に、愛生園における患者定員の超過によってハンセン病対策は前進していると述べ、「今回の不祥事は之れを遺憾とするにしても、之れ迄の苦心と、犠牲とに対して深く感謝の意を寄せたいと思ふ」と愛生園当局を支持する旨を記載している。
さらに、童話作家であり関西MTL理事の塚田喜太郎は「『親の心、子知らず』これが、癩病院の騒ぎです」と、実態を知らずに、的外れの激しい非難を書いている。
さらに全生病院の『山桜』や北部保養院の『甲田の森』にも執筆し、「非は患者にある」と断じて愛生園の患者に対する攻撃を続けた。
関西MTLの理事がこのような嘲りを患者に向けて浴びせる当時,世間がハンセン病患者に対してどのように考えていたかは伺い知ることができるだろう。彼の認識は、療養所の外においてハンセン病患者と関係する者と大差はなく、彼らは患者への「同情」が裏切られたとばかりにさまざまな雑誌に書き立てた。こうして、世論も時流も光田や国家の「絶対隔離」推進に流れていく。その流れ着いた先が「重監房」であった。
インターネットの普及と発展により、誰もが自由に私見を発表できる。その結果、個人情報の流出から誹謗中傷・罵詈雑言、個人攻撃から犯罪行為まで、あらゆることが簡単にネットを使って行える時代になった。この当時より遥かに安易に「世論操作」「情報操作」が可能である。だからこそ、情報の信憑性を確認すること、背後の企みを見抜くこと、真偽の判断を正確に行うことが求められている。
最後に、藤野氏が紹介している北条民雄の塚田に対する反論「井の中の正月の感想」を掲載しておきたい。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。