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「解放令反対一揆」における農民意識

もとの穢多に戻るということは,たとえば,道で農民とすれ違うときに,道をよけて土下座して,通り過ぎるのを待たなければならないんです。…ちょうど武士に対して農民がやらなければならないようなことを,被差別部落の人は農民に対してやらされていたんです。しかも,…いわゆる水のみ百姓であってもそうなんです。あるいは,農民の前では下駄を履いてはならない,あるいは雨でも傘をさしてはならない。…草履を脱いで家の中に入るんです。…そういうことを明治の四年までやらされていたわけです。しかし,賤民廃止令(解放令)以降,みんなそれをやめました。道であったらぺこりとおじぎをして,立ったままあいさつして通り過ぎるわけです。…「わしは水のみ百姓だけども,あいつとは違う。あれは穢多じゃ。見てみろ。道で会ったら,あいつらは土下座をして,わしの通るのをよけてくれる」と思っていた人たちは,体の血が逆流するような思いです。
(上杉聰 『天皇制と部落差別』)

このような意識が「差別意識」である。すなわち,部落差別の本質とは,部落や部落出身者を自分たちと同じ仲間と見なさない意識,自分と同じと見なさないからこそ部落出身者を<排除>して当然と意識するのである。この「差別意識」が極端な形で現出したのが,解放令反対一揆である。

「解放令」の布告は「即時無条件」であった。しかし,「解放令」が成立する直前まで政府内部では,何らかの条件をつけて,また何年間かかけて制度を廃止する方針が強かった。そして,もし即時・無条件にこの賤民制度を廃止すれば,農民が抵抗するだろうことも予測していた。にもかかわらず,政府は「即時無条件」で布告した。その理由は,地租改正の準備という急務な政治的要因であった。政府の予測どおり,いくつかの府県から布達についての問い合わせが政府に送られている。そして,政府や各府県の官吏の予想を上回って,農民は解放令に反対する動きや被差別部落民の平民化を敵対視する動きを起こしたのである。その動きに驚いたいくつかの府県では,農民を要求を受け入れたり,解放令を撤回したりしている。

では,なぜそれほどに解放令に反対したのか,農民の意識を考察してみたい。

まず第一の理由は,部落の人が「傲慢」になった,…第二に,部落の人たちが交わってくることに対する拒否反応があります。…部落の人が自分たちの中に交わってくると,同時に穢れが伝わってくるわけです。部落を襲った三つ目の理由は,その当時,屠牛馬が開始されたことへの反対です。屠殺をすると牛馬が少なくなって値が上がるでしょう。そのために,百姓が迷惑をする。…ここで被害者意識になってくるわけです。…農民の意識が被害者意識にまで発展したとき,この一揆が暴力行為にまで至る
(上杉聡 『前掲書』)

部落襲撃あるいは部落解放に反対する動機としての農民の意識は,上杉氏の説にあるように,被差別部落民が「解放令」を契機に,公然と「平民」として行動し始めたことを傲慢と感じたからである。しかも,彼らの「平民化」行動は,江戸時代からの意識のままに身分の別によって「分け隔てる」ことが当然と考えていた農民にとって,彼らが自分たちの生活圏である「社会」に「交わってくる」ことであり,このことは許し難い嫌悪感と拒否反応であった。また,屠牛を文明開化政策の中で始めることへの不安と抵抗があったと考えることができる。
これら3つの要素が複合的に絡み合いながら,農民の意識の中で増幅し部落襲撃にまで高まったと考えられる。つまり,江戸時代の社会意識のままの農民にとって「解放令」は,被差別身分の人々が自分たち平民と「同じ身分」になったことは認めざるをえない事実ではあるが,そのことは決して受け入れることのできないことであった。一方は積極的に「平人」として同等の言動を行い,他方はそれに対して困惑する。対応への準備もない状況で,今までとは違う言動を受けたのであるから,解放令を容認できない者にとって彼らの言動は「増長」と「傲慢」でしかなかった。

また,被差別身分に対して「排除」の意識と対応が当然であった農民にとって,彼らが平人となったからといって自分たちと同じ日常生活,同じ行動をすることは,自分たちの生活圏(社会)への侵入であった。しかも,彼らを「穢れた」者とする意識は当然のことであり,そのために「排除」していたのである。

なぜ彼らを排除したのか。それは「穢れ」の本質が「触れると移る」からである。
お酒を一緒に飲む,食事を一緒にする,生活を一緒にする,身体に触れる,などによって「穢れ」が移るゆえに「隔て」たのである。解放令以後,えた身分全体に対する「穢れ観」があり,それが自分たちの社会に紛れ込むことを怖れたのである。これが「交わること」への拒否である。
解放令反対一揆の発端の多くが,被差別部落民の積極的な平民化の動きとしての「酒屋への出入り」や「風呂屋への出入り」であることからも,この意識が強かったことがわかる。高知県の「膏取り一揆」での農民の要望書に「穢多を百姓に交わらせる,それは百姓を穢多にすることだ」とあるが,これは「百姓の中に穢多を入れると,我々百姓が穢れてしまう」という意味である。これは,農民の意識に強く「穢れ観」があったことを示している。

屠牛に関しては,宮崎県の「屠牛反対一揆」の要求書に「屠牛を開始すれば牛の値段がはね上がって,我々農民は非常に困ってしまう」という理由が書かれている。大分県でも同様である。屠牛は近代に入っての産業である。解放令の前後に公認されたのである。しかし,それを担うのが多くの場合,被差別部落であったことから,穢れとともに農民の宝である牛の値段を高騰させるという理由で部落が襲撃されたのである。

これらの理由が絡み合う中で,被差別部落によって一般民衆が被害を受けているという意識にまで発展していく。たとえば,部落が「増長」することは,農民を「軽蔑」することだと意識される。この被害者意識が高じてくると,部落が我々を襲撃するという猜疑心を生み,部落を襲撃しないと我々が襲われると思い込むまでになる。

解放令反対一揆に参加した農民は貧しい農民がほとんどである。
夜通し追いかけていって,四人の女性と一人の男性を殺した農民の持ち高は二石五斗であり,夫婦二人で食べるのがやっとの農民である。なぜそのような最底辺の貧しい農民が,残虐な行為に走ったのか。これが被害者意識である。つまり,解放令以後,脱賤化の行動を起こす被差別部落民によって「自分のプライド」が傷つけられたと感じること=被害者意識が高じて,「みんな部落が悪い」から「こいつらをやっつけなければ自分がたちが危ない」という意識になり,部落を襲ったのだ。ザンバラ髪をちょんまげに直して,「あの穢多と同一視されない農民,昔の百姓にもどりたい」という意識で部落襲撃に参加したのだ。

すなわち,被差別部落民が「傲慢」になることは,農民としての誇りを奪うことであるのみか,排除してきた「穢れ」た人間が自分たちの生活圏に入ってくる。そして,屠牛をやって,我々にとって大切な牛を飼うこともできないような状況にしている。この意識が「部落を残していては,我々は百姓として生きていけない」という意識に発展していったのである。被害者意識が危機感にまで高まった結果,部落襲撃が起こったのである。解放令の撤回を要求しても取り上げてくれない。危機感と焦燥感に駆られ,自分たちの手で解放令が撤回されたと同じ状況をつくろうと,部落襲撃に走ったのである。

以上のことから,これらの農民意識は,被差別部落の「解放令の現実化・実態化」としての「平民化」運動に対する「反応」であったと言えるだろう。
逆に言えば,解放令後にこうした新しい動きのない地域では,解放令反対一揆・部落襲撃は起こっていない。たとえば,東日本の部落の生活基盤は,多く刑吏・警察に依拠している。そのために,解放令が出されると,刑吏等からの収入が入ってこなくなり,経済的に困窮化していく。部落側の経済的基盤が解体されるため,増長しようにもできない。あるいは一村あたりの戸数人口が少ないため団結できない。このような地域では部落襲撃は起こっていない。西日本のように,皮革業や雑業などの規模が大きく,経済的基盤が豊かであり,人口も多い地域で部落側が積極的に立ち上がろうとしたところで部落襲撃が起こっている。すなわち,農民は単なる差別意識をもって部落を襲撃したのではなく,部落の立ち上がりによる自分たちの既存の社会環境を防衛するために襲撃したのである。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。