見出し画像

陥穽Ⅱ:「部落の起源論」

これも昔の「記事」である。私の「記憶」にために再掲するが、誰かの何かのヒントになれば幸いである。
-----------------------------------
雑誌『現代思想』(1999年vol.27-2)の特集「部落民とは誰か」に畑中氏の論文『「部落史」の陥穽』がある。私が畑中氏の論文で最も共感し,納得したのは,次の一文である。

…差別する人の,あるいは差別を当然とする社会の在り方を問題にしなければならないにもかかわらず,被差別の側の,しかもその<祖先のあれこれ>が問題にされたのである。

我々が「部落問題の解決」を目的として「部落史」を考察するのであれば,それは「部落問題」の起源を問うべきであって,「(被差別)部落」の起源を問うべきではない。

…「部落の起源」論の陥穽は,「部落問題は歴史に起因する」という部落問題の基本認識に由来する。「部落の起源」論とともに「部落問題は歴史に由来する」という認識は,<常識>であろう。…しかし,これが最大の誤りである。この場合,問題なのは「歴史に起因する」と言いながら,「歴史」=<祖先のあれこれ>に矮小化してしまうのが,「部落の起源」論である。

畑中氏が指摘するように,「部落の起源」論は「差別を合理化・正当化する役割」を果たしてきた。「政治起源論」が(部落を差別するのは)悪いのは,政治・権力であって「部落」ではない,そして「今ある部落差別」は過去の問題」であって現在の我々の責任ではないという無責任論を生み出した。あるいは,昔も今も悪いのは政治であるという責任回避論を生み出した。

果たしてそうであろうか。また,過去の,各々の時代の政治が悪いのであって,その「まちがい」を正せば(歴史誤謬を修正すれば)人々の理解も認識を変わり(正しくなり),人々は歴史認識を改め,部落に対する差別を解消するという方法論を提起する。
-----------------------------------
だが,果たして歴史認識を改めた程度で,人々は部落差別をしなくなるだろうか。

そもそも「部落」の内からの訴えは,「何故差別されねばならないのか」という<今ある差別>の根源を問いかけるものであって,<先祖のあれこれ>に対する疑問ではなかったはずである。ところが,それが<祖先のあれこれ>=起源(ルーツ)論にすり替えられてしまったのである。
部落問題は「歴史に起因する」のではない。「歴史」=<祖先のあれこれ>が差別の口実になっている問題である。「歴史」=<祖先のあれこそれ>を差別の口実にする<しかけ>をこそ問題にしなければならない。部落問題は,その<しかけ>に起因する問題である。「歴史」=<祖先のあれこれ>を克服(否定)することではなく,その<しかけ>を克服(否定)することが部落問題解決の方向である。そもそも,「歴史」=<祖先のあれこれ>を克服(否定)することなどできるはずがない。にもかかわらず,部落問題を「歴史」の責任にすることは,近代以降の部落問題の現実認識・責任の所在を曖昧にする。

確かに,従来,研究者や教員,部落解放運動関係者の多くは,部落差別の原因(要因)を「歴史」に求めてきた。つまり,部落差別の要因が過去のどこかにあると考えたからである。
畑中氏は,その理由を次のように述べている。

では何故に,差別を合理化・正当化する「部落の起源」論=部落責任説に,運動も教育も取り込まれていったのか。それは,祖先の恨み・濡れ衣を晴らす,切なる思いを「部落の起源」論に込めたからであろう。多種多様の起源論において<祖先のあれこれ>=起源が悪意をもって語られることに対して,とにもかくにも抵抗することが求められたのである。そして生み出したのが「政治起源説」。「政治起源説」では,政治・権力が悪いのであって「部落」は被害者であることを強調した。その限りでは部落責任説を払拭したつもりになった。

現在も「政治起源説」は根強い。
しかし,私は部落問題(部落差別)に政治が関与していないとも,責任がないとも考えてはいない。また逆に,政治のみが部落問題を生み出したとも考えてはいない。

歴史認識の誤謬を糺すことと,部落問題を解決することは同じではない。
歴史の事実を確認する作業は必要であるが,歴史をさまざまに解釈することによって,さらなる錯誤・誤謬を生み出す危険もある。

マルクス『フォイエルバッハ・テーゼ』の最終項目に「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。肝心なことは世界を変革することである。」という有名なテーゼがあるが,同様のことが歴史を研究する人間にも言えるだろう。
特に,部落史・部落問題を研究する人間にとって,このテーゼは自分自身に向けるべき言葉でもある。なぜなら,部落問題の解決は「世界を変革する」ことであり,自分自身の部落に対する意識,人間に対する意識を変革することなしに,人権問題である部落問題は解決しないからである。

畑中氏が言うように,部落問題の要因を「起源」に求め,<祖先のあれこれ>を現在に引き寄せて解釈することでは,部落問題の解決には結びつかないだろう。「ボタンの掛け違い」ではないが,歴史解釈の違いを糺すだけで現代の部落問題が解決するはずもない。

部落問題は「人権問題」である。今に生きる人間が他者に対してどのように接するかの問題である。部落民であろうが障害者であろうが,ハンセン病回復者であろうが,相手がどのような人間であろうとも,同じ人間として他者の人権を尊重する接し方ができるかどうかである。
-----------------------------------
極論になるかもしれないが,各々の時代において,現代と同様に,さまざまな考えをもった人間がいたと思う。被差別民を差別した人間もいただろうし,その役務に感謝した人間もいただろう。身分の垣根を越えて対等に接した人間もいただろうし,身分差別に忠実に生きた人間もいただろう。

歴史に学ぶとは,各々の時代をそのままに知り,教訓を得ることである。部落史を学ぶことで,被差別民を存在させた各々の時代や社会の<しくみ>,人間観・世界観を学ぶことである。
部落問題史を学ぶとは,部落問題の時代背景・社会背景を通して,部落問題を生み出してきた要因と,それを容認してきた人間観・社会観,それを克服しようとしてきた人間観・社会観を学び,自らの生き方や在り方を問い直すことであり,その先に現在の社会,つまり部落問題を含む人権問題が存在する社会を変革することである。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。