なぜ光田はすべての患者を「強制収容」することに固執したのだろうか。「予防」に関して「家族伝染」を持ち出して、次のように従来の持論を展開する。
光田の証言はハンセン病医学の「権威」と「専門家」という立場から医学的知見を披露しながら自説の正当性を述べているが、どれほど最新の医療状況(治療の成果など)に基づいて正確であったか、甚だ疑問である。少なくとも世界の動向には逆行している。
成田稔は『日本の癩対策から何を学ぶか』で、次のように述べている。
ここで、「三園長証言」(1951年)までのハンセン病対策の国際的動向を『検証会議最終報告書』を元に、成田稔や藤野豊の考察などを参考にまとめておきたい。なお、それ以後に関しては別項にて考察する。
なぜ「事実誤認」が起こったのだろうか。私は「事実誤認」ではなく、日本の実状から「絶対隔離政策」を選択しようとする政府や医学者が意図的に「曲解」したのだと思っている。
大谷藤郎は、この会議の会議録日本語訳(長島愛生園蔵)を読み、次のように述べている。(一部であるが会議録も転載されている)
転載されている会議録を読むかぎり、ハンセンは「確実に次の事は云う事が出来る。即ち隔離が行われる所ではらいが減少し、これのない所では増加すると云う事である」と述べて「隔離」の必要性を主張しているが、それは浮浪し、他人の家から家へ、村から村へと遍歴する貧乏人に対してである。むしろ、意思の指導による「らい規則」(食器を別にし、自分の寝床や部屋をもつこと、洗濯物を特別に洗い、清潔に対する教育をするなど)を家庭内で守ることの重要性を述べている。また、会議に出席した学者たちが自国の実態を述べているが、絶対隔離や強制収容を強く主張している意見は少ない。
にもかかわらず、出席した土肥慶蔵は後年(1916年)、次のように述べている。
まるで光田が述べているようである。約20年の歳月が過ぎ、絶対隔離政策が推進されているとはいっても、会議に出席した土肥が「ハンセンの建議を容れ」た「強制隔離」を「わが国の癩病撲滅の上に極めて有益な参考になる」と断言していることは、曲解も甚だしい。だが、光田健輔にとっては、この第1回国際らい会議の報告は自分の唱導する「絶対隔離」を正当化できる根拠となったことはまちがいないだろう。大谷はこの結果について次のように述べている。
つまり、国際会議において、らい菌は感染力が弱いことなどの理解の上で「強制隔離」の制限に向かうことが決議されたのであるが、日本は、逆に「強制隔離」の対象をすべての患者に広げる動きが具体化することになる。そのきっかけが、1915年に光田が内務省に提出した「癩予防ニ関スル意見」であった。その内容は、ハンセン病を予防するには放浪患者だけでは不十分であり、全患者を離島に隔離すること、そのために府県立連合療養所を拡張・新設することなどであった。その直後に光田は断種による出生防止を採用し、全生病院で初めて断種手術を実施している。さらに翌年には、「癩予防ニ関スル件」が一部改正され、所長に懲戒検束権が認められた。
光田健輔が国際的動向に反して「絶対隔離」に固執したのは、数年後には必ず「再発する」という彼の持論によるものであるが、その医学的・疫学的な根拠は確かではなかった。彼の著書『愛生園日記』に「国際会議へ」と題した小文がある。
「フランス皮膚学会の大家であるジャンゼルム教授」に自身の発見した「光田反応」が「一言のもとに否定」されたが、現在では「唯一のレプロミン・テストとして用いられ」ていることや、ヨーロッパの「大風子油」には「雑菌たくさんまじってい」るため「化膿し、潰瘍を起こす」が、「日本で使っている大風子油は、酒井の岡村平兵衛という物堅い油屋の製品で、非常に純良なものであ」るので効果があることなど、自画自賛が書かれている。
驚くべきは、帰路に視察に訪ねたインドやフィリピンの療養所で「ワゼクトミー」を推奨して回っていることである。キュリオン島には男女6千人の患者が収容されている巨大な療養所がある。その療養所に向かった光田は、次のようなエピソードを書いている。
この一文でも、光田の頑迷固陋さがわかるだろう。光田にとっては<ハンセン病の絶滅>が唯一絶体の目的であり、そのための「手段」は選ばれない。患者は「治療の対象」ではなく「感染源」でしかない。
光田にとっての同会議出席の収穫は、会議におけるハンセン病の研究成果や議論ではなく、帰途に立ち寄って視察した療養所であった。特に、キュリオン島の患者施設や住居は長島愛生園の建設構想に「大きなヒント」を得たと述べている。また、フィリピンの「パロール・システム(解放組織)」制度も、解放者の半数以上が再発して戻ってくることから、自らの持論である「絶対隔離」に自信をもったことである。
第1次世界大戦終了後の国際情勢や戦勝国として欧米列強と肩を並べたとの自負心から、「日本は、東アジア圏における領土拡大をねらい、ヨーロッパ諸国に対して日本の独自性、優位性を強調するようになる。このような政治情勢にあり、政治以外の分野であるにもかかわらず、ハンセン病医学も国際会議に必ず従うべきであるとの考えは醸成されにくかったと考えられる」(『検証会議最終報告書』)
私は、光田の論文から彼の「夢想家」の一面を感じてしまう。この論文に描かれているハンセン病医療の日本的システム(絶対隔離)の具体的姿は、あくまで光田が脳内で想い描く「夢想の姿」でしかなかった。その「夢想の姿」を強引に実現しようとした結果、現実との大きなギャップが生じたのは当然といえる。そのギャップを生じさせた最大の要因は「金銭(予算)」である。光田の「夢想の姿」を実現するには莫大な予算が必要であるが、国家にそれだけの余裕も考えもなかっただろう。光田の賢明な政治的働きかけもあっただろうが、現実は厳しかった。それでも光田は強引に実現を図る。そのギャップを埋めるための「患者作業」や「十坪住宅」などであった。すべての犠牲は患者に求められた。
徳永進は「ハンセン病療養所は、もうひとつの国、植民地のようであった。その植民地の国の国王が光田健輔で、国王はすべてについて考えを巡らせていたのだろう」(「隔離の中の医療」『ハンセン病』)と、的確に指摘している。国民に犠牲を強いるのは、今も昔も変わらない指導者の姿である。
太田は、この会議の報告の中で、「癩の予防に隔離が必要であってもこれを唯一の方法と見做すわけにはゆかず、隔離は伝染性のあるものに限り、他は外来診療をもって対応するとよいという会議の結論を、癩の根絶により有効だろうと支持している」(成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』)
また、成田は国際的動向について、次のようにまとめている。
この会議の注目すべき点は、患者への「人道的な配慮」をどのように確立すべきかが模索されたことであり、感染のおそれに関しては「らい者と共に働く者でも、感染に対し合理的注意を払えば、ほとんど感染しないという事実を歴史は示している」としていることである。
しかし、日本では同年(1938年)、栗生楽泉園に「特別病室(重監房)」が設置されている。このことだけでも、日本が国際的動向を無視している証左である。
それでも不思議に思うのは、ハンセン病の専門医や研究者、またハンセン病を専門とする厚生省官僚が少ないとはいっても、このような国際的研究会議の会議録や論文、報告書などが彼らに届いていないとは考えにくい。医者であれば、世界中の最新「治療法」あるいは「研究」に注視するのは当然であろう。にもかかわらず、なぜ国際的動向に逆行するような政策が遂行されたのだろうか。たとえ戦時体制、世界からの孤立に向かっていたとしても世界のハンセン病に関する研究成果や、それに基づく提言を無視して平気であったのだろうか。
私は、日本独特の権威主義的医療体制あるいは官僚体制を背景に、いわゆる「上の者(命令・指示)に従順」という風潮が暗黙の裡に作用していたのではないかと考えている。つまり、光田健輔や高野三郎などに反論もできず、むしろ「忖度」と「盲従」に終始したのではないだろうか。
もう一つは「情報統制」ではなかったか。欧米諸国や国際会議から入ってくる「医学的情報」を自らの持論にとって都合よく取捨選択し、独自の解釈(曲解も含めて)を加えていたのではないだろうか。
光田は自著の中で、第一回国際癩会議をはじめドイツからの医学的情報を、ドイツ語の自修を兼ねて洩らさず読んだと述べている。私も光田の自著や『愛生』などに寄稿した多数の論文やエッセイなどを読むかぎり、彼が国際的動向や医療的情報を知り得なかったとは思えない。
そして、成田は光田の「絶対隔離」への固執を「いずれにしても、光田の癩患者隔離についての異常な拘りは、前に強迫神経症を考えたが、立場(管理者)上の行動からすると性格的にパターナリズムともいってよいかもしれない」と推察している。
そう考えれば、国際的動向や医療的情報を都合よく解釈した自説を正当化し、他説を認めない傲慢さも理解できる。