光田健輔論(14) 権力と人権(7)
長島愛生園に知人や友人の家族を案内して訪れたが、幼い子や引率した中学生を目を細めて眺める入所者の姿を見るたびに、言いようのない悲哀を感じた。実際、「私らには子どもがおらんから、この子らが自分の子どもや孫だったら…そう思ってしまう」「今更の様に、あの時の子どもが生きていたらと思うけど…」と、痛恨の思いを語る入所者を何人も知っている。
なぜ光田健輔は、違法である「断種」をハンセン病患者に強制したのか。果たして彼は、この患者たちの思いを想像できていただろうか、私は疑問に思う。むしろ、国家や社会のため、大義のための「尊い犠牲者」という美名に隠して、自らの「理想実現」を完成させることだけを求め、自己満足に浸っていたのではないだろうか。
光田は「断種」についてどのように考えているか、『愛生園日記』の「ワゼクトミー(優生手術)」より抜粋してみる。
この一文に見え隠れするのは、光田の本音である。
光田は男女の情愛を尊重する立場から、聖バルナバ医院長コンウォール・リーや回春病院長ハンナ・リデル、神山復生病院長ドルワル・ド・レゼーなどがキリスト教の倫理によって男女関係を律するべき(婚姻を認めない、男女分離)という主張に反対している。一見、「同病相憐」む夫婦愛を「人道」とする光田の意見は美しく見えるが、そこには性欲の処理を「断種」を条件に認め、性欲を満足させることで、また結婚を認めることで、逃走を防ごうとする目的が見える。
また、光田は胎内感染や妊娠・出産がハンセン病発症に影響するリスクを強調するが、それだけではないと藤野氏は言う。
光田の結婚承認は同時に断種承認であった。つまり、光田のねらいは、結婚承認による夫婦の「同病相憐」ではなく、「断種」による子孫の根絶であった。当初は刑法に違反する「断種」であったが、1920年の厚生省保健衛生調査会総会で決定された「根本的癩予防策要綱」では、「患者の請求があれば療養所医長は生殖中絶方法を施行しうる」の条項が明記され、正当化が図られている。まして戦後となり、プロミン治療が行われるようになり、ハンセン病が完治する病気となって以降も、各療養所において医者の手によって「断種」は継続されていった。感染症であり、完治する病気となったハンセン病において、なぜ「断種」が継続されたのか、この矛盾こそが光田による<絶対隔離>の目的であった。
藤野氏が着目したのは、前回述べた「特種部落調附癩村調」との関連であり、「癩村」を調査する目的と「断種」との関係である。
「子孫を絶やす」ことが「ハンセン病の根絶」という目的を達成する<手段>であり、その最善の方法が<絶対隔離>であり、<断種・堕胎>であったのだ。だからこそ、光田が繰り返し患者を「犠牲者」と呼ぶ理由である。
だが、この考えはハンセン病患者を地球上から抹殺することに行き着く。ハンセン病患者だけではなく、ハンセン病に罹患しやすい体質の人間をも消滅させる究極の優生思想である。
なぜ「らい予防法」に至るまでのハンセン病に関係する法律に「退所規定」がなかったのか。初めから退所させることは想定されていなかったのである。なぜなら、退所して子どもをつくれば、その子にもハンセン病に免疫の弱い体質が遺伝するかもしれないからである。
藤野氏の「絶対隔離をおこなって、その結果として子孫を絶やしたのではなく、子孫を絶やすために絶対隔離を断行したのである。」という考察は、従来の一般的な見解を覆し、光田の欺瞞を暴いた。つまり、光田は最初から<ハンセン病患者を隔離して治療する>ことを目的としたのではなく、<ハンセン病患者を隔離して絶滅させる>ことを目的としたのだ。療養所を「楽園」「楽土」と見せかけて、実際は一度入れば決して出られない「終生の檻」と考えていたのである。
あらためてハンセン病療養所の最終目的を考えれば、ナチスが開設したアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に代表される「絶滅収容所」と同じであることを痛感する。ナチスによるユダヤ人への大量殺戮や虐待・虐殺はさまざまな書籍や映像などで全世界の多くの人々に周知されている。しかし、日本のハンセン病療養所で行われた非人道的な行為はあまりにも知られていない。
光田は<断種・堕胎>の必要性や美談ばかりを強調しているが、事実はどうであったか。患者自治会が書き残した<証言>や、患者が書き記した自らの身に起こった<事実>を読むとき、光田の自己正当化の偽善を思い知る。
そのほんの一部を紹介する。宮坂道夫氏の『ハンセン病 重監房の記録』に引用されている「女性患者に対して」の「強制的な人工中絶が行われた」事実の証言である。
このような<事実>は、ハンセン病国賠訴訟の証言にも、患者の自伝にも、そして私自身が直接に聞き取った実話にもある。それさえも氷山の一角であり、数十年間にどれほどの悲劇が繰り返されてきたであろうか。誰に訴えることもできず、療養所内で権威と権力をもつ医師や看護師、職員による人権蹂躙を泣きながら耐え忍んで死んでいった患者も多い。
それだけではない。宮坂氏は次のように述べている。
栗生楽泉園に開設された「特別病室」(重監房)を「日本のアウシュビッツ」と呼んだのは谺雄二氏であるが、私はハンセン病療養所そのものが「アウシュビッツ収容所」に匹敵すると思う。過酷な運命を生き延びた人をサバイバー(生還者)と呼ぶが、彼らはそのあまりの過酷な日々と目の前で起こった残酷な出来事のため、堅く口を閉ざしてしまうという。ハンセン病療養所に生きた患者もまた語ることを封印した者も多い。その中で、沈黙を破り、後世に二度と同じ悲劇を起こさないためにも語り伝えようと立ち上がった患者もいる。彼らの自伝や証言が隠された闇を教えてくれる。我々はその声に学ばなければならない。死者の声に耳を傾けなければならない。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。