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光田健輔論(42) 不治か完治か(2)

…絶対隔離政策は何の反省もないまま戦後に受け継がれた。1953年、「癩予防法」が「らい予防法」と「改正」されても、絶対隔離の方針は変わることがなかった。法律「癩予防ニ関スル件」から「らい予防法」まで一貫しているのは、療養所からの退所規定の欠如である。
たしかに、ハンセン病患者への隔離は日本だけではなく、多くの国家でおこなわれてきた。しかし、患者を療養所に強制隔離し、療養所内では強制労働を課し、反抗する患者には監禁を含む懲罰を科し、ついには虐殺し、さらには断種や堕胎まで強要した国家は、日本のみである。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

私の疑問もまた、なぜ世界の潮流に反して日本独自の「絶対隔離政策」に固執したのかであり、その張本人である光田健輔は、なぜ世界の動向に背を向け続けたのかである。

藤野豊氏の『ハンセン病と戦後民主主義』より抜粋・引用しながら整理しておく。

第一回国際らい会議(1897年:ドイツ、ベルリン)
ハンセン病が遺伝性疾患ではなく感染症であると確認された。癩菌の発見者であるアルマウェル・ハンセンが開会の辞において「強制隔離」の必要を力説し、「隔離がこの疾病の蔓延を防ぐためのには最上の方法」という提案を採択した。ただし、すべての参加者が同意していない。
日本からは北里柴三郎・土肥慶蔵が出席し、報告する。

第二回国際らい会議(1909年:ノルウェー、ベルゲン)
「らいを隔離することによって、その成功をおさめたドイツ・アイスランド・ノルウェー・スウェーデンの場合を考えるに、らい患者が任意的に承諾するような生活状態のもとにおける隔離法がのぞましい」との決議がなされた。
日本は、この点を踏襲せず、「文明国」の「国辱」として、患者を隠すことに固執した。

第三回国際らい会議(1923年:フランス、ストラスブール)
「らいの蔓延が著しい場所においては、隔離が必要」とはするものの、「隔離は人道的にすること、且つ充分な治療を受けるのに支障のない限りは、らい患者を、その家庭に近い場所におくこと」「貧困者、住居不定の者、浮浪者、その他習慣上住居において隔離することのできない者は、事情により病院、療養所又は農業療養地に隔離して十分な治療を施すこと」が決議された。
しかし、日本は、この頃、絶対隔離に向けて動き出していた。患者は家庭から遠ざけられ、離島、山間など人里離れた環境の療養所に送りこまれていく。1931年には「癩予防法」を公布し、絶対隔離の国策を確立する。

国際連盟らい委員会(1931年:バンコク)
隔離を「らい予防の唯一無二の方法とみなすことはできない」「隔離は伝染のおそれありと認められた患者にのみ適用すべきである」と明言。

第四回国際らい会議(1938年:カイロ)
強制隔離のもとであっても「合理的退所」が保証されるべきであると報告された。

世界のハンセン病対策が、患者の人権や人道的処遇に配慮したり、隔離施設の生活環境を充実させたりするなど治療を優先しながら、隔離を緩和していく動向に対して、日本の内務省衛生局や光田ら専門医は十分に把握していながら世界の潮流を無視して絶対隔離政策を推進していった。特に光田は第三回国際らい会議に出席していながら、各国の実証事例に学ぶこともなく、「諾威の癩予防漸進主義は本邦予防法の骨子であるけれども、時代の進むに従い此固陋な方法を墨守するのは策の得たるものではない」と述べ、自らの主張に基づく絶対隔離の正当性を強調している。

光田は、なぜ「絶対隔離」に固執するのか。藤野氏は、光田の「癩予防撲滅の話」(『社会事業』10巻四号:1926年7月)を根拠として、次のように推察する。

それは、第三回国際らい会議で、インドでハンセン病医療に取り組んでいたロージャーが、日本のハンセン病患者を10万人と報告したからであった。光田は、この時、ロージャーが作成した国別患者表を引用し、日本以外で患者が多いのは中国、そしてアジア・アフリカの植民地であることを示し、「如何に野蛮未開の土人に此病が蔓延して居るかと云う事」とともに「血統の純潔を以て誇りとする日本国が、却って他の欧米諸国より世界第一等の癩病国であることがわかる」と慨歎した。「血統の純潔を以て誇りとする日本国」が「野蛮未開の土人」と同列となる屈辱、光田は、こうした意識からも「他の伝染病と等しく絶対隔離」する道を強行したのである。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

私も『光田健輔と日本のらい予防事業』に再録されている光田の本論文を一読したが、藤野氏の推察だけではないように思う。

まず、なぜ光田はロージャーが作成した「表」を掲載したのか、しかも「表」には日本の癩病者は「102,585人」と数えられている。この10万人超の人数を光田は信じていないにもかかわらず、論文の最初に取り上げている。

その前に疑問に思うのは、インドの医師であるロージャー博士は各国や地域の「癩患者数」をどのような方法で把握したのか。各国における調査データを入手したのだろうが、それにしても正確とは思えない。実際に日本の調査結果とは大きく懸け離れた実数である。ロージャーの「国別患者表」は、各国や地域からの調査データを基に推察した数字ではないかと私は思っている。それは光田も同じであったと思う。

事実、同論文において、「明治三十九年の癩病患者数は全国通計二万四千人」「大正八年の全国一斉調査の結果は一万六千二百六十一人」「大正十四年十一月全国一斉調査の結果は一万五千四百人」と過去の調査結果を挙げて「二十年前には警察眼に映したる癩が二万四千人であったが、二十年間癩予防法により多少の努力をなした結果、漸く一万五千四百人に減少せしめたと云うてよかろう」と述べている。では、光田は患者数をどのように考えていたか。

爾余の患者(三分の二即ち一万四百名)は家庭内に残遺して尚ほ其の家族に危険を及ぼすものである。併し此の調査総数一万五千四百名は、前にも述べた如く警察署の調査に基くものであるから、癩の実数は壮丁の検査成績より推定して遥かに此数以上に上るべく、公平たる判断によれば三万人内外を有するものと推定せられて居る。癩の予防注意が行き届けば届く程、各階級から続々と救を求むるものが多くなる見当である。

光田健輔「癩予防撲滅の話」

光田は本論文執筆時(大正15年)において全国の患者総数を三万人と推定していた。では、なぜロージャーが「表」に示した日本の患者数10万人超を否定せず、あえて持ち出したのか。私は、「10万人」という数と「表」中に列挙された国や地域を根拠に、自らの主張する「絶対隔離」の必要性と正当性を述べるためであったと考える。

「表」中の「野蛮未開の土人」の国や地域と同等以上のハンセン病患者を有することは「国辱」であると喧伝することで、「血統の純潔を以て誇りとする日本国」と信じる国民や、それを目指している政財界人に「絶対隔離」の更なる充実のための援助を求めようとしたのである。そのために、光田は殊更にハンセン病を「恐ろしい伝染病」であると強調し、文明国では撲滅したハンセン病患者が「野蛮未開の土人」の国や地域では未だに多いという「実態」を例示したのである。
つまり、ロージャー博士の「国別患者表」を示すことで、文明諸国がハンセン病患者が多い日本をどのように見ているかを周知させようとしたのである。

だが、果たして光田が言うように、諸外国はハンセン病患者が多いことくらいで「文明国」ではないと思っただろうか。光田が危惧するように、外国人が訪れる名所旧跡に「群れをなして出没する」「癩乞食」の姿を目にして眉を顰めるかもしれないが、それを理由に「文明国」ではないと断じるだろうか。「国辱」と思ったのは、日本の政府や官僚ではなかっただろうか。
本論文でも「若し世人が癩病を以て国辱の大なるものなりと考え、全力を挙げて此れが撲滅を努力するなれば、癩は他の伝染病の如く比較的早く全滅に帰するであろう」と述べている。

…目下の我国では大阪、京都、神戸の市街や、高野山、伏見、桃山、生駒山等の畿内に於ける各所旧蹟到る処に、癩乞食が群れをなして出没するのを見受けるであろう。此れは大阪療養所の収容力の尠いのに乗じて各地より入込みたる癩乞食である。…併し設備の充分なる癩療養所であれば、仮令千人の患者があろうとも、其の害の及ぶ所は一人の浮浪癩の害よりも尠いものである事は、他の急性伝染病に於て見ても判る事である。然るに畿内付近には千人の浮浪癩患者があって、潜かに病毒を其の周囲に撒布しつつあるから、一日も早く救済の道を立てたい。

光田健輔「癩予防撲滅の話」

その時代は皆がそうした差別や偏見をもっていたという「時代的責任論」では、光田の「差別感情」を安易に片付けられない。なぜなら、彼が「救癩の父」と賛美され文化勲章まで授与されたにもかかわらず、彼はハンセン病患者を「癩乞食」と呼び、ハンセン病患者を多数有する国や地域を「野蛮未開の土人」と蔑んでいる。こうした「差別意識」や「偏見」は、以後の光田の言動を見る限り、終生変わることはなかったと私は思う。

本論文においても、自ら訪問して視察した国や地域、また各国の研究論文などから知り得た情報などを基にして世界の癩病対策について論究し、英国及び英国領、インド、米国、日本を比較しながら自らが主張する「絶対隔離」の効果が絶大であることを述べている。そして光田はそのためには「予算」が必要であることを外国の予算額を持ち出して訴えている。

私は、本論文を通して感じるのは、光田健輔の功名心と名誉欲である。ハンセン病患者を治療するよりも、ハンセン病を撲滅すること、すなわちハンセン病患者を絶滅することにより専門医としての名声を得ようとする意思を感じる。それは光田が病理学者であることも深く関係している。彼が「解剖」に執着したのも「癩菌」の発見方法(光田反応)の精度を上げるためであり、「癩菌」の正体を追究するためであり、治療薬や治療方法の研究のためではなかったと思う。

諾威(ノルウェー)の「ベルゲン」市の「癩病院長として篤学温良のリー博士は、日本の学徒の訪問を受ける毎に、癩研究の材料欠乏を訴え『貴君、癩の研究は日本に帰りてなさるべし。日本には絶好の材料豊富にして我等の羨望に堪えざるなり』と云われる。」と光田は書いている。「材料」とはもちろんハンセン病患者そのものである。患者を「材料」と呼んで平気な感覚も「時代性」なのかもしれないが、なぜこの逸話をこの部分に挟む必要があったのだろうか。前後の文脈からノルウェーの「癩予防漸進主義」を批判して「絶対隔離」を主張するのであれば不要な逸話である。ただ、続けて光田は、リー博士が「癩の初期を結核」と「誤認」したことを書いていることから、ノルウェーでは患者が減少した結果、「材料」である患者が少なくなり十分な研究ができない状況にあるが、日本はまだ患者(材料)が多いから十分に研究ができることを言いたかったのかも知れない。光田にとっては患者は研究のための「材料」であったのだろう。

…光田は1915年からハンセン病患者への断種を開始したことが示すように、優生学の視点からもハンセン病の撲滅を求めていた。絶対隔離は、単に「国辱」からだけではなく、優生政策の一環とも位置づけられる。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。