光田健輔論(42) 不治か完治か(2)
私の疑問もまた、なぜ世界の潮流に反して日本独自の「絶対隔離政策」に固執したのかであり、その張本人である光田健輔は、なぜ世界の動向に背を向け続けたのかである。
藤野豊氏の『ハンセン病と戦後民主主義』より抜粋・引用しながら整理しておく。
光田は、なぜ「絶対隔離」に固執するのか。藤野氏は、光田の「癩予防撲滅の話」(『社会事業』10巻四号:1926年7月)を根拠として、次のように推察する。
私も『光田健輔と日本のらい予防事業』に再録されている光田の本論文を一読したが、藤野氏の推察だけではないように思う。
まず、なぜ光田はロージャーが作成した「表」を掲載したのか、しかも「表」には日本の癩病者は「102,585人」と数えられている。この10万人超の人数を光田は信じていないにもかかわらず、論文の最初に取り上げている。
その前に疑問に思うのは、インドの医師であるロージャー博士は各国や地域の「癩患者数」をどのような方法で把握したのか。各国における調査データを入手したのだろうが、それにしても正確とは思えない。実際に日本の調査結果とは大きく懸け離れた実数である。ロージャーの「国別患者表」は、各国や地域からの調査データを基に推察した数字ではないかと私は思っている。それは光田も同じであったと思う。
事実、同論文において、「明治三十九年の癩病患者数は全国通計二万四千人」「大正八年の全国一斉調査の結果は一万六千二百六十一人」「大正十四年十一月全国一斉調査の結果は一万五千四百人」と過去の調査結果を挙げて「二十年前には警察眼に映したる癩が二万四千人であったが、二十年間癩予防法により多少の努力をなした結果、漸く一万五千四百人に減少せしめたと云うてよかろう」と述べている。では、光田は患者数をどのように考えていたか。
光田は本論文執筆時(大正15年)において全国の患者総数を三万人と推定していた。では、なぜロージャーが「表」に示した日本の患者数10万人超を否定せず、あえて持ち出したのか。私は、「10万人」という数と「表」中に列挙された国や地域を根拠に、自らの主張する「絶対隔離」の必要性と正当性を述べるためであったと考える。
「表」中の「野蛮未開の土人」の国や地域と同等以上のハンセン病患者を有することは「国辱」であると喧伝することで、「血統の純潔を以て誇りとする日本国」と信じる国民や、それを目指している政財界人に「絶対隔離」の更なる充実のための援助を求めようとしたのである。そのために、光田は殊更にハンセン病を「恐ろしい伝染病」であると強調し、文明国では撲滅したハンセン病患者が「野蛮未開の土人」の国や地域では未だに多いという「実態」を例示したのである。
つまり、ロージャー博士の「国別患者表」を示すことで、文明諸国がハンセン病患者が多い日本をどのように見ているかを周知させようとしたのである。
だが、果たして光田が言うように、諸外国はハンセン病患者が多いことくらいで「文明国」ではないと思っただろうか。光田が危惧するように、外国人が訪れる名所旧跡に「群れをなして出没する」「癩乞食」の姿を目にして眉を顰めるかもしれないが、それを理由に「文明国」ではないと断じるだろうか。「国辱」と思ったのは、日本の政府や官僚ではなかっただろうか。
本論文でも「若し世人が癩病を以て国辱の大なるものなりと考え、全力を挙げて此れが撲滅を努力するなれば、癩は他の伝染病の如く比較的早く全滅に帰するであろう」と述べている。
その時代は皆がそうした差別や偏見をもっていたという「時代的責任論」では、光田の「差別感情」を安易に片付けられない。なぜなら、彼が「救癩の父」と賛美され文化勲章まで授与されたにもかかわらず、彼はハンセン病患者を「癩乞食」と呼び、ハンセン病患者を多数有する国や地域を「野蛮未開の土人」と蔑んでいる。こうした「差別意識」や「偏見」は、以後の光田の言動を見る限り、終生変わることはなかったと私は思う。
本論文においても、自ら訪問して視察した国や地域、また各国の研究論文などから知り得た情報などを基にして世界の癩病対策について論究し、英国及び英国領、インド、米国、日本を比較しながら自らが主張する「絶対隔離」の効果が絶大であることを述べている。そして光田はそのためには「予算」が必要であることを外国の予算額を持ち出して訴えている。
私は、本論文を通して感じるのは、光田健輔の功名心と名誉欲である。ハンセン病患者を治療するよりも、ハンセン病を撲滅すること、すなわちハンセン病患者を絶滅することにより専門医としての名声を得ようとする意思を感じる。それは光田が病理学者であることも深く関係している。彼が「解剖」に執着したのも「癩菌」の発見方法(光田反応)の精度を上げるためであり、「癩菌」の正体を追究するためであり、治療薬や治療方法の研究のためではなかったと思う。
諾威(ノルウェー)の「ベルゲン」市の「癩病院長として篤学温良のリー博士は、日本の学徒の訪問を受ける毎に、癩研究の材料欠乏を訴え『貴君、癩の研究は日本に帰りてなさるべし。日本には絶好の材料豊富にして我等の羨望に堪えざるなり』と云われる。」と光田は書いている。「材料」とはもちろんハンセン病患者そのものである。患者を「材料」と呼んで平気な感覚も「時代性」なのかもしれないが、なぜこの逸話をこの部分に挟む必要があったのだろうか。前後の文脈からノルウェーの「癩予防漸進主義」を批判して「絶対隔離」を主張するのであれば不要な逸話である。ただ、続けて光田は、リー博士が「癩の初期を結核」と「誤認」したことを書いていることから、ノルウェーでは患者が減少した結果、「材料」である患者が少なくなり十分な研究ができない状況にあるが、日本はまだ患者(材料)が多いから十分に研究ができることを言いたかったのかも知れない。光田にとっては患者は研究のための「材料」であったのだろう。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。