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「史料」再考(2) 捕亡・行刑

穢多・非人など賤民が犯罪人の「捕亡」や「行刑」にどのように携わっていたか、人見彰彦氏が「部落史のひとこま」で紹介している<史料>「穢多頭前々 勤向書上帳」から考察してみたい。(人見氏の現代語訳による)

穢多頭の動向について書上げるように仰渡されたので左のように書上げます。
一 当村が始まってより数代、穢多頭を仰付られ、臨時の御用も大切に勤めてきました。そして寛延三(1746)年三月十八日、今日より「郡中締方」「備中国穢多惣頭」「帯刀御免」「郡中村々江割賦永代弐人扶持」「御用提灯壱張下置」を仰付られました。
一 盗賊・悪党はいうまでもなく、すべて不正の者を遠国まで探索するよう命ぜられ、御判物をいただいて出発しております。
一 隠密の御用を命ぜられ、御前様御書をいただき勤めております。
一 死罪御仕置の場合、四、五日前からひそかに命ぜられますが、無事に勤めております。
一 当支配下・他所の穢多・煙亡(隠亡)・非人・無宿・御百姓躰のもので、当御役所より当方へ引渡しされたものの咎は前例に依って無事にとりはからってきております。
但し、御仕置の時は、その罪の軽量をもって、非人手下、又は遠国非人手下、あるいは日数を定めて留籠に入れたり、あるいは手鎖のうえ禁足、あるいは戸をしめて禁足、又は入墨のうえ重敲にします。
御仕置された者を引渡す時は、入墨のうえ三日留籠に入れ、今後は当支配所や近国を徘徊しないようにきびしく申して追い払います。入墨は、男の場合左の二の腕え墨の幅三歩、間五歩にして輪を二筋引廻し、一筋は上の方を三歩切り、他の壱筋は下之法を切ります。女は右の腕を同様にいたします。
一 御追放の仕置きの場合、棒かつぎ人足を手下の者に勤めさせ、国境まで道中固メ役を勤めております。
一 御引廻しのうえ死罪、あるいは獄門の御仕置者の場合、御定めの場所を引廻した後、御検士様御出張のうえ死刑の御仕置を勤めております。
一 御牢屋の吟味の場合、手下の者をつれてまかり出て、無事に勤めております。
一 庭瀬駅まで御囚人を差出す場合、煙亡(隠亡)・非人共を囚人かつぎ人足として申しつけ、道中固めとして私手下の者壱人差添て、無事勤めております。
一 悪党を捕らえる道具、すなわち威鉄砲壱挺・三道具壱組・其外の捕方道具一切の使用を許されています。
一 縅取強盗・火付・忍取盗賊を召捕った時は、きびしく取調べた後、留籠に入れ、直に報告しております。
但し、留籠壱戸前は、御上様より下し置き、大破した場合は御造り直しをお願いあげることとなっております。
一 当御支配下、他所の穢多・煙亡(隠亡)・非人の類を召し出される場合、穢多頭が差添としてまかり出ております。
一 右の外に臨時の御用、右に準じて相勤めております。
右の通り相違ございません。
 文政十二年五月
大草太郎右馬様
倉敷御役所

この<史料>から「穢多頭」の役目(仕事)は、郡中の取り締まり・国中の穢多の統率・盗賊悪党の探索と捕亡・隠密の御用・処刑・処罰・取り調べ・囚人の護送・臨時の御用など多岐にわたっていることがわかる。
また、これらの役目を実行するにあたり、帯刀御免・永代壱人扶持・御用提灯の携行・国内外の探索許可状・縅鉄砲など捕方道具の使用・隠亡や非人を手下として使うことなどが許されている。

これら役目をそのままに現代に置き換えれば、警察・刑務官・裁判官を兼務していることになるが、果たして同様と理解してよいのだろうか。<穢多>役・<非人>役を現代の警察官・裁判官であると認識し、そのままにイメージしてよいのだろうか。
政治体制・統治機構などが全く異なるにもかかわらず、仕事(役目)の内容だけを取り上げて「同じ」と判断するのは短絡過ぎる。何より身分制度下における身分に応じた「役負担」であり、支配層(支配身分)である武士(統治者)から命じられた(強制された)「役目」である。自らが望んで就いた仕事でも役目でもない。このことは、繰り返される「無事に勤めております」の文言からもわかるだろう。

役負担にともなう給与として「弐人扶持」を与えられている。「扶持米」とは下級武士に支払われる手当で、一人一合の計算で一年(360日)で1石8斗を月割りで毎月支給するものである。米(玄米)俵で約5俵、人ひとりが1年間生活するための最低限度の支給米単位である。
「弐人扶持」であるから、約10俵の扶持米を、「備中郡中村々」が「割賦」して「永代」に支払うように定めている。これでは「穢多頭」一人(家族を含めて)の生活と御用に必要な道具類の費用を賄うことは難しいのではないだろうか。
それに関しては、次の史料が参考になる。

御仕置御用の時、御入用物や穢多頭がつれていく人足や、人足の手当銀・書付等について、左之通り書き上げます。
一 御仕置当日、道中先払壱人、此御手当銀三匁
一 紙幟持壱人、此御手当銀三匁
一 同道中読人壱人、此御手当銀三匁
一 捨札持壱人、此御手当銀三匁
一 三道具三人、此節手当銀九匁、但、壱人ニ付三匁宛
一 抜身槍弐人、此節手当銀六匁、但、右同断
一 突人弐人、此節手当五拾目、但、壱人弐拾五匁宛
一 棒かつぎ拾弐人、但、御囚人前後六人宛、此節手当銀三拾六匁、但、壱人三匁宛
一 非人弐人、但、御囚人を乗せる馬口取夫 此御手当銀六匁、但、壱人三匁宛
一 縄取弐人、此御手当銀拾弐匁、但、壱人六匁宛
一 御囚人押固メ弐人、此御手当銀六匁、但、壱人三匁宛
一 穢多頭鼻紙料として銀拾弐匁くだし置れ候
一 召連夫壱人、此御手当銀三匁
一 御仕置場所手伝四人、此御手留銀拾弐匁、但、右同
一 煙亡・非人十弐人、但、御仕置死骸御晒中番、昼四人夜八人宛、此御手当銀拾八匁
但 壱人壱匁五分宛
一 非人三人、但、御仕置死骸番小屋こしらえ夫 此御手当銀四匁五分、但、壱人壱匁五分宛
一 穢多頭手下弐人、但、磔場所昼夜見つくろい夫 此御手当銀六匁、但、壱人三匁宛
一 同壱人、但、御仕置前日、場所見つくろい、非人共へ万事差図つかまつり候夫、此御手当銀三匁
一 非人拾弐人、但、御仕置前日場所掃除、道具、垣つくろい夫共、此御手当銀拾八匁、但、壱人壱匁五分宛
一 煙亡四人、但、御晒後死骸取片付夫、此御手当銀六匁、但、右同
右御仕置御入用物左之通ニ御座候
一 松六寸角弐間物壱本
一 弐寸角弐間物弐十本
一 松小丸太壱本
一 六尺杭弐拾本
一 松割木十弐束、但、御仕置場所夜分篝入用、一夕分
一 九分割壱本
一 馬弐疋、但、壱匹は道中用意馬ニ御座候
一 木綿三反
一 芋縄弐拾四尋
一 壱間半大身槍弐筋
一 手提壱つ
一 柄𣏐壱本
一 茶碗壱つ
一 半紙弐状
一 日笠紙十弐枚、但、幟ニ仕立
一 筵七枚
一 小竹弐拾束
一 五寸廻竹壱本、但、幟棹長見積り
一 縄拾束
一 鎌五丁
一 四寸針三本
一 ろうそく五丁、但、一夕分
右之通、磔御仕置御入用物相違御座無く候

TVの時代劇や映画に描かれる「市中引き回し獄門」あるいは「処刑場」の場景が思い出されるだろうが、その設置や処刑、その後の片付けに必要な人員と道具などを書き上げたものである。これほどの人数や物が必要なのかと思うが、一つ一つを考えれば納得する。

処刑にこれだけの物を揃える費用もそれになりの出費である。では、駆り出される穢多・非人への手当はどれだけになるのか。

江戸時代の貨幣には金貨・銀貨・銭貨の三種類があり、銀一貫は1000匁である。江戸中後期においては「金1両=銀60匁」である。金1両を現代の通貨に単純には換算できないが、10~15万円(7~8万円という人もいる)くらいではないかと思っている。例えば12万円とすれば、銀1匁は、12万円÷60匁=2000円 くらいではないだろうか。「銀1分」は十分の1匁である。約200円である。(別の試算もあるので一概には言えないが…)

史料にある「銀3匁」は約6000円で、別の試算でも「人夫日当は約6000円」とあるから妥当な手当であったといえるだろう。

上記史料にある手当の総額を計算すれば、人員が68人(延べ人数かもしれないが)、総手当が銀220匁、単純計算で約44万円である。さらに、道具や物の費用を考えれば、仕置御用にかかる費用を現代に置き換えて50~80万円、それ以上ではないかと考えられる。

では「御仕置御用(処刑)」が月に幾度となく行われていただろうか。時代劇のように犯罪が横行していたとも考えにくい。百姓一揆も実態としては多くはない。
従来言われてきたような「百姓・町人を弾圧する尖兵として働かされた」「分断支配」「年貢の未納・ごまかし等の理由をつけられ農民が捕らえられ、拷問・引廻し・処刑されていますが、その時、農民たちがどのような目でもって「かわた」を見たか想像することができましょう」などの歴史解釈が妥当かどうか疑問である。

その他に、処罰・取り調べ・逮捕・囚人の護送・盗賊悪党の探索・牢番・見回りなどが役目として命じられたとしても、それらの手当だけで生活ができていたとは思えない。また、穢多・非人がこのような役目(治安維持の役)を果たすだけの存在であったとも思えない。

岡山藩では「穢多頭」が<目明し>として国中の穢多を統率・管理してはいたが、穢多の多くは、日常的には主に農作業に従事したり、斃牛馬の処理から皮革業や細工仕事、芸能など雑業を生業として生計を立てながら、非日常の「役目」を命じられた際に勤めていたのではないだろうか。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。