「史料」再考(2) 捕亡・行刑
穢多・非人など賤民が犯罪人の「捕亡」や「行刑」にどのように携わっていたか、人見彰彦氏が「部落史のひとこま」で紹介している<史料>「穢多頭前々 勤向書上帳」から考察してみたい。(人見氏の現代語訳による)
この<史料>から「穢多頭」の役目(仕事)は、郡中の取り締まり・国中の穢多の統率・盗賊悪党の探索と捕亡・隠密の御用・処刑・処罰・取り調べ・囚人の護送・臨時の御用など多岐にわたっていることがわかる。
また、これらの役目を実行するにあたり、帯刀御免・永代壱人扶持・御用提灯の携行・国内外の探索許可状・縅鉄砲など捕方道具の使用・隠亡や非人を手下として使うことなどが許されている。
これら役目をそのままに現代に置き換えれば、警察・刑務官・裁判官を兼務していることになるが、果たして同様と理解してよいのだろうか。<穢多>役・<非人>役を現代の警察官・裁判官であると認識し、そのままにイメージしてよいのだろうか。
政治体制・統治機構などが全く異なるにもかかわらず、仕事(役目)の内容だけを取り上げて「同じ」と判断するのは短絡過ぎる。何より身分制度下における身分に応じた「役負担」であり、支配層(支配身分)である武士(統治者)から命じられた(強制された)「役目」である。自らが望んで就いた仕事でも役目でもない。このことは、繰り返される「無事に勤めております」の文言からもわかるだろう。
役負担にともなう給与として「弐人扶持」を与えられている。「扶持米」とは下級武士に支払われる手当で、一人一合の計算で一年(360日)で1石8斗を月割りで毎月支給するものである。米(玄米)俵で約5俵、人ひとりが1年間生活するための最低限度の支給米単位である。
「弐人扶持」であるから、約10俵の扶持米を、「備中郡中村々」が「割賦」して「永代」に支払うように定めている。これでは「穢多頭」一人(家族を含めて)の生活と御用に必要な道具類の費用を賄うことは難しいのではないだろうか。
それに関しては、次の史料が参考になる。
TVの時代劇や映画に描かれる「市中引き回し獄門」あるいは「処刑場」の場景が思い出されるだろうが、その設置や処刑、その後の片付けに必要な人員と道具などを書き上げたものである。これほどの人数や物が必要なのかと思うが、一つ一つを考えれば納得する。
処刑にこれだけの物を揃える費用もそれになりの出費である。では、駆り出される穢多・非人への手当はどれだけになるのか。
江戸時代の貨幣には金貨・銀貨・銭貨の三種類があり、銀一貫は1000匁である。江戸中後期においては「金1両=銀60匁」である。金1両を現代の通貨に単純には換算できないが、10~15万円(7~8万円という人もいる)くらいではないかと思っている。例えば12万円とすれば、銀1匁は、12万円÷60匁=2000円 くらいではないだろうか。「銀1分」は十分の1匁である。約200円である。(別の試算もあるので一概には言えないが…)
史料にある「銀3匁」は約6000円で、別の試算でも「人夫日当は約6000円」とあるから妥当な手当であったといえるだろう。
上記史料にある手当の総額を計算すれば、人員が68人(延べ人数かもしれないが)、総手当が銀220匁、単純計算で約44万円である。さらに、道具や物の費用を考えれば、仕置御用にかかる費用を現代に置き換えて50~80万円、それ以上ではないかと考えられる。
では「御仕置御用(処刑)」が月に幾度となく行われていただろうか。時代劇のように犯罪が横行していたとも考えにくい。百姓一揆も実態としては多くはない。
従来言われてきたような「百姓・町人を弾圧する尖兵として働かされた」「分断支配」「年貢の未納・ごまかし等の理由をつけられ農民が捕らえられ、拷問・引廻し・処刑されていますが、その時、農民たちがどのような目でもって「かわた」を見たか想像することができましょう」などの歴史解釈が妥当かどうか疑問である。
その他に、処罰・取り調べ・逮捕・囚人の護送・盗賊悪党の探索・牢番・見回りなどが役目として命じられたとしても、それらの手当だけで生活ができていたとは思えない。また、穢多・非人がこのような役目(治安維持の役)を果たすだけの存在であったとも思えない。
岡山藩では「穢多頭」が<目明し>として国中の穢多を統率・管理してはいたが、穢多の多くは、日常的には主に農作業に従事したり、斃牛馬の処理から皮革業や細工仕事、芸能など雑業を生業として生計を立てながら、非日常の「役目」を命じられた際に勤めていたのではないだろうか。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。