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光田健輔論(21) 浄化と殲滅(2)

ネット上に公開されている論文に、吉崎一氏『光田健輔のハンセン病政策の変容に関する考察-林文雄・犀川一夫からの影響の比較分析-』がある。一読して、最近のハンセン病研究の一つである、前回から検証している近藤祐昭氏や廣川和花氏、遠藤隆久氏と共通する論旨、すなわち光田健輔の人物像への評価を再検討することで擁護し、彼らの意図が絶対隔離ではなかったとするものである。

今までの研究では、ハンセン病患者が「人道的扱い」を受けず、人権蹂躙されたことが問題にされてきた。実はそのような側面には、光田による政策によってハンセン病患者が「家」から外にでて差別されないようにするための配慮やハンセン病の菌が拡がらないようにするための施策であったことがわかる。結果的に光田の意図とは反対に、ハンセン病患者は「人間的な扱い」を受けなかった。
…光田があたかも「悪人」のように扱われてきたが、その政策の一つ一つを精査すると、決してハンセン病患者に余計な負担をかけないような人物像が現れてくるのではないかと考える。これは、先行研究ではあまり明らかにされていない部分である。…
光田は、独裁者としての印象が強かったが、長島愛生園の元ハンセン病患者の話を聞くと、決して「光田園長は悪くなかった」と発言している患者が多い。これは、独裁者光田というよりも、人間的に魅力のある人ではなかったのではないだろうかというのが今回の骨子である。

吉崎一『光田健輔のハンセン病政策の変容に関する考察』

吉崎氏は、患者からの聞き取りや証言から光田健輔を「魅力的な人間」ととらえ、「光田の本心が本当にハンセン病患者の撲滅にあったのかというのは甚だ疑問である。そこで、新しい光田像を発見していくのが本論文の骨子である」とし、先行研究に対して反証していく。

まず、光田を「人間的に魅力のある人」と断定する根拠が、長島愛生園の入園者への聞き取りやハンセン病回復者の手記、あるいは光田の弟子であった林文雄や犀川一夫などの著書や伝記に書き記された光田への感謝や尊敬、それを裏づけるエピソードなどである。吉崎氏はこの光田健輔の人物評価に基づいて、彼の政策を「精査」しているが、「新しい光田像」を作り上げたいのだろうが、あまりにも短絡的であり強引に結論づけようとしている。まず、光田の「独裁者」「悪人」という評価を否定し、「魅力的な人間」と(あえて言えば「善人」「救癩の父」とでも)したいのだろうが、振り子を逆に振りたいあまりにもう一方に振りすぎてしまったことに気づいていない。なぜ彼らが光田を評して「独裁者」「悪人」と言い切ったのか、その検証をしていない。

吉崎氏は、中村文哉氏の「ハンセン病経験者の人権侵害という法的問題のみに一元化させてハンセン病問題を定式化させると、ここのハンセン病経験者たちが生きぬいてきたここの生の軌跡を捨象することになりかねない」(「ハンセン病問題と意味の問題系」)と同じ「視点」からハンセン病患者を見つめ、つまり「さまざまないきかたをひとつのことのように『被害者だ』と言い切ることはできない」とする。そして「それは、光田が魅力的な人間だったからこそ、そこにハンセン病患者の複雑性が見てとれる」と理由づける。

私は幾度読んでも文意が理解できない。言いたいことは単純であるが、その「視点」もまた逆側の一方のみを見ることに陥りはしないだろうか。ハンセン病患者を「被害者」という「類型的人間像」で一括り(一元化)して論じることはできないという「視点」は納得する。何万人というハンセン病患者が存在し、隔離されても生き抜いてきた。彼らの「生」(人生)は一様に語ることはできないし、彼らが隔離生活をどのように受けとめてきたかは様々である。
後で述べるが、「断種」にしても受けとめ方は様々であり、その生も経験も「一元化」はできない。
だが、中村氏の言っている「法的問題」だけでハンセン病問題における「人権問題」を語ることはできない。「政治的制度的」「歴史的」問題として、「権威・権力」の問題としても検証すべきであり、「国家的犯罪」という側面を忘れてはいけない。

吉崎氏がハンセン病患者が「被害者」だと「言い切ることができない」理由が「光田が魅力的な人間だったからこそ」なのだろうか、甚だ疑問である。もちろん、光田健輔によって救われ、彼を思慕した患者も多いだろう。散歩する光田に声をかけられることで、絶望の中に希望を見いだした患者もいただろう。その患者にとっては光田健輔は「魅力的な人間」であったかもしれないが、逆の患者も多くいたのである。光田によって「特別病室」に送り込まれた患者は彼を「魅力的」と思っただろうか。

私が理解に苦しむのは、光田の「魅力的な人間」が「ハンセン病患者の複雑性」とどのような関係があるのかである。「複雑性」とは、光田に対する認識を言っているのだろうか。そうであれば、一応の理解はできるが、しかし「患者の複雑性」と光田の「魅力的な人間」像は別のものと思うのだが…。

吉崎氏自身が引用している有薗真代氏の「光田の言動のなかに両義性がはらまれていたと考える方が自然であろう」の「両義性」を見落としてはいないだろうか。吉崎氏は繰り返し光田を「魅力的な人間」と評して、それを根拠に論を展開するが、彼が批判する先行研究の偏りと同じ偏りに陥っている。私は両方を認め、それこそ光田の「両義性」こそが問題であったと考えている。つまり、光田の頑迷さと執拗さ(固執)こそが問題を拡大させたと解釈している。

吉崎氏の論法(論理展開)は、光田健輔の「魅力ある人間像」(たぶん、患者を第一に思う慈父の面からだろうが)を根拠に、「外(隔離所の外の社会)に出て差別をうけないようにする」という「意図」「配慮」から、隔離や断種などのさまざまな政策を考え実行し運営していった、である。

吉崎氏は「目的」(意図、思い)と「結果」を分けて、責任転嫁を容認する。
単純化すれば、患者を「外」の差別から守るために隔離し、子供への感染を心配することなく療養所で夫婦(男女)生活を営むために「断種・堕胎」をし、入園者相互がより良い環境で生活するために患者作業を行い、同病相憐の精神で互いをいたわる道徳を教化する。これらは、光田が患者のために良かれと思っておこなった光田の「目的」(意図)であって、患者の「目的」(思い)ではない。そこを曲解してはいけない。「断種・堕胎」の「結果」がどうなったか、

では、吉崎氏は「断種」について光田をどのように評しているか。論文中より抜き出してみる。

光田は、身の不幸を慰めあうことも考えられ、ワゼクトミーをすることによって解決できるのではと思考しはじめる。
光田は結局はライ菌をもった人物が性交渉をすることによって、感染するといえるのではないかとかんがえており…。
新たな差別が生まれないようにする光田の戦略があったのではないだろうか。

吉崎一『光田健輔のハンセン病政策の変容に関する考察』

これは、あくまで光田の「思考」であって、光田の根底にはハンセン病は不治の病であり、ハンセン病に罹患しやすい体質は遺伝するという考えがあった証左である。それゆえ、光田はハンセン病患者を「完治」することより、隔離し「断種」することで社会や子孫にハンセン病を感染させない、すなわち「ハンセン病患者の根絶(絶滅)」を目的にしていたのである。吉崎氏が引用している光田の言葉は私には「言い訳」にしか聞こえない。光田は将来ハンセン病が「完治」できる病気になることなど想定していない。たとえ吉崎氏が「明治期の治療法」を引き合いに出して当時は「不治の病」という認識が一般的であったと擁護しようとも、医者であり病理学者を辞任するのであれば、強制的に解剖同意書を書かせて数千体もの患者の遺体を解剖しているのは何のためだったのか、この矛盾をどう説明するのか。吉崎氏は、プロミン以後も療養所で「断種」が行われてきたことをどう説明するのか。愛生園を退任して以後、化学療法が進展している状況を知りながら沈黙したままだった光田をどう弁護するのか。それでも「魅力的な人間」と言えるのかどうか。
吉崎氏も本論文の後半では「母子感染はほぼないことが証明、しかし…晩年近くになっても考え方は変わらなかった」と述べているではないか。

さらに、次の文章に書かれた認識もそれまでの文意と矛盾するように思える。

1956年国際会議に出席。諸外国は他の伝染病と同じ扱い(差別法廃止)としているのに対し「人間の福祉が忘れさられそうとしているとしか、私には考えられない」と述べた。
これは光田の本音ではないか。…在宅医療も隔離医療も認める中で、光田の心にあったのは「ハンセン病差別の撤回」ではなかったのではないだろうか。光田は人権蹂躙など間違った政策をしていた一方、長島愛生園に「隔離」することによって「外」の差別から「感染病は治る病気で他の人と一緒に暮らせる」ことが分かったゆえの発言だったのではないだろうか。

吉崎一『光田健輔のハンセン病政策の変容に関する考察』

まず1956年の国際会議とは何だろうか。ちなみに、1956(昭和31)年に開かれたローマ会議には大島青松園の野島泰治園長、多摩全生園の林芳信園長と行政官の浜野規矩雄が出席しているが、光田は出席していない。

「光田の本音」と書きながら、その根拠が説明されていない。「人間の福祉」とはいかなる意味なのか。諸外国のように「同じ扱い」にすれば「人間の福祉がわすれさられ」るのか、私には文意や説明がよくわからない。
「光田の本音」が、吉崎氏が繰り返す「外の差別から患者を守る」であるのならば、戦後プロミン治療が画期的な効果を上げ始めて以降、従来の「強い感染力」や「不治の病」などのまちがった説明を修正しなかったのか。戦前のように国家の力を借りて喧伝しなかったのか。むしろ、隔離する以上に、差別や偏見を是正する方策をしなかったのだろうか。さらに、いわゆる「三園長証言」での時代に逆行する証言をしたのであろうか。

光田の人生は道徳規範とその知識とのずれが生じていたのではないかと考えられる。たとえば、ハンセン病は遺伝ではないと断言しつつ、全生病院時代の「忌まわしい経験」がワゼクトミー(断種)政策につながっていったと考えられる。全体として、患者の権力を通した徹底的な管理体制の擁護者として光田を位置づけるなら、懲戒検束権+絶対隔離+断種という圧政が行われてきたと考えられる。しかし、長島事件はこれらに対する患者の反抗として、むしろ光田のポリシーの破綻を示していると考えられる。つまり、光田が描くほど患者は道徳的に退廃しておらず、光田が表明した家族主義が浸透していなかったのではないだろうか。長島事件は患者を劣位に置くことで、自分が優位に立たせる力学がうまくいかなかったということである。ここに、光田の考えた理想的な「家族主義」(道徳)と患者にとっての家族主義の相違が見られる。

吉崎一『光田健輔のハンセン病政策の変容に関する考察』

この文章もわかりにくい。「道徳規範とその知識のずれ」あるいは「光田のポリシーの破綻」とはどういうことなのか。これらを光田の考える「家族主義」とすれば、吉崎氏の述べるように、光田と患者との「家族主義」の認識が「相違」(「ずれ」)していたのは確かである。「魅力的な人間」である光田と「ポリシーの破綻」した光田をどう結びつけて、何を言いたいのか、私には理解ができない。

後半は、林文雄と犀川一夫とを通して光田健輔の考えを明らかにしようとするものであり、特に密だとの関係を彼らの著書から拾い出して検証している。だが、それらも自説に都合のよい部分の切り抜きであって、結局は何を立証したいのかわからないので、ここでは検討は控えておく。

「おわりに」で結論を書いているが、ここでも林や犀川、小笠原を引き合いにして、光田健輔の人間像を肯定的に認め、彼の政策を正当化する論調に終始している。

…光田は決して独断的な人間ではなく、人間的な魅力ある人物として描かれているところである。光田も実はハンセン病患者には人間的な生活を送っていってもらいたかったのではないだろうか。
…光田は必死になって、らい予防法を改正し、「島」での生活の充実を考えていることからもえきる限り、「人間的な生活」をハンセン病患者は送っていって欲しかったのではないだろうか。

吉崎一『光田健輔のハンセン病政策の変容に関する考察』

果たしてそうであろうか。吉崎氏も書いているように、光田の理想と患者の理想は違っている以上、光田の考える「人間的な生活」と患者の考えは相違していた。あくまでも光田の考える「人間的な生活」であって、隔離下の中での「生活の充実」である。それで満足し、光田に感謝する患者もいれば、不満を持つ患者もいる。それが<隔離の実態>である。

光田が国会での発言の撤回を求められた時に、「私の信念である」と頑として拒否したのは、自分の意見が科学的であると信じて疑わず、科学的真理はすべてに優先するものであるという科学主義が背景にあったからではないか。高度成長以降、公害問題以降、科学万能主義は衰退したが、明治から1960年代までを生きた光田にとって、科学は人権をも超える権威をもつものだった。

吉崎一『光田健輔のハンセン病政策の変容に関する考察』

だから、光田の政策は仕方がなかったで済まされるのか。正当化されるのか。1951年の国会証言はプロミンの効果が実証されているのである。プロミンは「科学主義」「科学的真理」には入らないのだろうか。「科学が人権をも超える権威」と思っているのは光田であって、患者ではない。

比較分析から見えてきたことは、先行研究では見えなかった、「光田」の人間らしい魅力のある姿であり、犀川、林両名の接し方を見ると光田が行った政策も「ハンセン病患者の差別を受けないため」の政策ではなかったであろうか。

吉崎一『光田健輔のハンセン病政策の変容に関する考察』

「先行研究では見えなかった」と、誰のどの著書を読んでそのような結論を導くのか、吉崎氏の研究の軽さを感じる。彼が批判の対象とする「先行研究」は藤野氏らを指していると思うが、吉崎氏の指摘する「光田の人間らしさ」(それが魅力的かどうかは別にして)は十分に著書に書かれている。また、光田の業績についても評価はしている。私も、光田がいなければ日本のハンセン病政策は随分と遅れていただろうし、彼の情熱的な活動が渋沢栄一や政治家、官僚を動かしたと認めている。また、回復者や入園者の方々との面談や聞き取りから光田に感謝し思慕している方々が多くいることを、藤野氏も著書で書いている、私も直接に幾人からも聞いている。

光田であろうと他の人間であろうと、振り幅は人それぞれであるが、どれほど「人間的に魅力的な人物」であっても、一方で「人権蹂躙」どころか「虐殺」でも平気で行うことはできるのだという人間の<真実>を知るべきである。「魅力的」な人間であろうと「善人」であろうと、人間性だけが「政策」を発案し実行できるのではない。

光田が発案した「政策」が「周りの光田派の医師を囲い込み」「人道的でない扱いが先行していった」と吉崎氏は「政策」の一人歩きに責任を転嫁して、光田を「非常に魅力のある医師」と高評価する。未だに吉崎氏の使う「魅力的」の意味がわからない。

吉崎氏の論文を読み返しながら検証してきたが、正直、最初に掲げられた「問題提起・研究目的・研究方法」で提起された「新しい光田像」とか「光田のパーソナリティに迫る」は、どれも具体性に欠けた一部の資料に偏った、いわゆる「先行研究」への批判的反証の試みに終始しているだけである。繰り返される光田への高評価も「人間的に魅力ある人物」という表現だけであって、その論証も乏しい。まして光田の政策を時代背景や証言などから検証することもない。藤野氏や成田氏の大著、あるいは国賠訴訟の裁判記録や検証会議の記録集などを詳細に検討してから書くべきであろう。

余分なことかもしれないが、気になるのは、(ライ予防法試行、強制収用など)誤字・脱字である。せめて確認はするべきだろう。また、全体的に「~ではないだろうか」調の推量文が多い。正直、いったい何を論証したいのか、その具体的証明、論拠は何かなど論旨と論証の展開が粗雑であってわかりにくい。

私は、「人間らしい魅力のある姿」「魅力的な人間」「魅力のある医師」などの形容で光田の人格や人間性を表現して、光田の政策を肯定あるいは正当化する論旨には納得できない。そのような光田は意図的に「人権蹂躙」をするはずがなく、目的はあくまでも患者のためであり、外で差別を受けないように「隔離」して「守っていた」のだという論理展開も短絡過ぎる。実証的に検証できていないままに、どちらかというと患者や弟子達の個人的な主観による「感情的な証言」を根拠として「正当化」することに危惧を覚える。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。