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『血塗られた慈悲,笞打つ帝国』(2)

江戸幕末から明治初期の移行期を考えている。幕府と諸藩の解体,明治新政府の成立と近代化政策による大きな社会変動の中で,被差別民はどうなっていったのかを考えている。
そのテーマに別の視点を提示してくれたのが本書である。幕末から明治へと大きく社会が変化することに,直接のきっかけをあたえ,深く関わることになった外国との関係を考察していて興味は尽きない。
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本書の論旨を簡略にまとめるならば,次のようになると思う。

幕府は「刑罰を,社会秩序を維持し権力を行使するための複雑な戦略の一環」として利用したが,「為政者への信望を損なうことなく機能し続け」させるために,実際の処刑役を被差別民に命じた。つまり,刑罰ももつ「社会秩序の維持」という側面では武士を,「悪行と残酷さ」という側面では被差別民を民衆に意識づけたのである。

…幕府が厳罰を使い続けながらも,「仁政」という基本イメージを崩さないようにするための方策があった。幕府は,厳罰について最も不快で最も目立つ事柄を処理する責任を,正式に制度化されていた「賤民」つまり「被差別民」の一団に負わせていたのである。
…幕府は,被差別民の非道な行為を阻止する存在となることで,自分たちは仁政を施しているのだと言い張ることができた。つまり,被差別民が非道な「屠者」となったのに対し,武士は慈悲深い為政者として生命を守る存在になったのだ。

本書の「解説」に真柴隆弘氏も次のように書いている。

幕府は畏怖されるばかりの恐怖の権力ではなく,慈悲にあふれたまさに親のような仁君としてのイメージ作りにも工夫を凝らした。…
…徳川幕府は恩赦や規則の手加減などによって「慈悲」を示すとともに,被差別民を刑罰の執行に携わらせることによって,残虐さのイメージを彼らに転移させることに成功する。

この点について具体的に書かれている部分を,少し長いが抜粋して引用する。

すでに江戸時代が始まる前から,被差別民は一部の刑罰の執行にかかわっていたが,それが全国に制度として広まっていくのは,江戸時代に入ってからのことである。実際,綱吉の時代には,幕府が命じる刑罰のほとんどすべての場面で被差別民が重要な役割を果たすようになっていた。…一部の刑罰では,被差別民は武士である役人の単なる手伝い役として働いた。たとえば斬首の場合がそうだ。斬首を実行するのは,公儀御様御用か,身分の低い打役同心である。首打役が罪人の首に刀を下ろす準備をする間,2~3人の被差別民が首をきれいに打てるよう罪人を押さえる役目をする。首が打たれたら,罪人の体を前に押し出して首を下げ,首から流れる血が前もって掘っておいた穴に流れ落ちるようにする。打たれた生首を回収して洗うのも,処刑場を清掃して死体を処分するのも,被差別民の仕事だ。この種の仕事は,被差別民を,死の穢を扱うのに利用できる人々と見る旧時代の観念と合致している。しかし,江戸時代には,実際に執行する場面で被差別民が中心的役割を果たすようになった刑罰もある。たとえば磔や火刑では,罪人を槍で刺したり,罪人の体に火をつけたりといった恐ろしい作業も含め,すべての仕事が被差別民の頭と,その部下によって執行された。
磔と火刑の二つと,斬首とでは,生み出される恐怖の度合いが天と地ほど違うのは明らかだと思うが,もう一つ,…斬首は原則として堀に囲まれた牢屋敷の敷地内で執行されたのに対し,磔と火刑は野外の刑場で行われた…。…処刑の瞬間を見に来た者が,武士ではなく被差別民が罪人の死体を切断する行為に携わっているところを目にしたというのは非常に重要である。さらにその後,切断された死体は晒されるのだが,そのときに近くには必ず被差別民の一団がいて,死体の番をし,最後には(衆人が見る中で)死体を磔柱から下ろして始末した。獄門を言い渡された晒し首の場合も同様だ。役人が牢屋敷の敷地内で首を切り落とすと,被差別民が生首を持ち,市中を回って刑場へ運び,晒している間中,その場に座って番をする。日本橋で生きたまま晒の刑に処せられた罪人の番も,処刑前に罪人を市中で引廻すのも,すべて被差別民の仕事である。つまり江戸時代には,刑罰を庶民の目に公開しなくてはならない場合,その場には必ず被差別民の姿があったのである。
こうして非常に見える形で被差別民を刑罰制度に携わらせたことで,武士は慈悲深いというイメージを,少なくとも二つの方法で提示し守ることができた。…武士は刑罰を命じ続けておきながら,その刑罰の最も恐ろしい側面から距離を置くことができた点が挙げられる。世間の目から見れば,武士政権である幕府の命令を直接実行しているのは武士ではなく,情けも慈悲も知らず,人間だろうと動物だろうと残酷な拷問を加えても良心の呵責をまったく感じないと思われていた身分の低い人々であった。…幕府は,秩序を押しつけて平和をもたらしたことで,この国を悪行と残酷さから救ったとされている。まさに,この悪行と残酷さの象徴とされたのが被差別民である。…さらに同時に,罰せられた死体の近くに被差別民の姿を常に置くことで,本当の「屠者」「屠膾之類」は被差別民だという見方を強化し,それによって,かえって各地を支配した武士たちが決して善政を敷いていたわけではないという事実から人々の目をそらすことができた。
…厳罰を実際に執行するのは被差別民だというイメージを民衆の中に広めていったことで,武士はかつての「殺人者」「屠者」というイメージを捨て,民衆を守る慈悲深い守護者という立場を新たに手にしたのであった。

確かに,武士政権が被差別民を政治支配に意図的に利用した面は事実である。
しかし,現在に続く部落差別の要因を武士によって意図的に仕組まれた巧妙な政策にのみ求めることが果たして妥当かどうかについては疑問が残る。
著者であるボツマンも「差別が広がる直接的要因の一つとなったことは間違いない」としつつも「江戸時代の被差別民を,自ら歴史に働きかけることができず,なすすべもなく幕府の方針の犠牲となった人々と単純に考えるのは間違いだろう」と述べている。そして,塚田孝氏の研究成果を援用して,次のように書いている。

被差別民も他の社会的集団と同じように,生活を守り権力を手にする戦いにのめり込んでいったと考える方が,はるかに適切だ。…江戸時代の被差別民たちは,幕府にとって重要な役務をいくつも実施するのを承知することで,身分の安全をある程度勝ち取ることができた。社会の中で,低いとはいえ正式な身分として認められ,問題や争いが起きたときは,忠実に役務を履行する見返りとして幕府に助けを求めることができたのである。
…幕府から重要な役務を行う責任を課せられた被差別民の集団および指導者は,特権を求めることができたし,幕府の後ろ盾を得て他の被差別民を配下に置くこともできた。

私も大旨において同感である。従来のように,被差別民を無抵抗で無力な,虐げられた存在とは考えていない。しかし,上記に引用した刑罰に携わった被差別民に関するボツマンの記述は誇大すぎるように思う。処刑や晒を行う被差別民に対するイメージは,現在に生きるボツマンの感覚・感性であって,当時の人々の感覚・感性ではない。

「磔や火刑では,罪人を槍で刺したり,罪人の体に火をつけたりといった恐ろしい作業」「その刑罰の最も恐ろしい側面」「悪行と残酷さの象徴」などは,現代人の感覚である。刑罰や処刑に対する当時の人々のイメージも現代人とは異なるものであったと考える。

はたして,当時の人々が被差別民を「情けも慈悲も知らず,人間だろうと動物だろうと残酷な拷問を加えても良心の呵責をまったく感じないと」思っていただろうか。私には必ずしもそうであったとは思えないのだ。

確かに,戦乱のない太平の世が長く続いていたとはいえ,刀の携行や槍の所持などが認められていた生殺与奪の権限をもつ武士がおり,百姓や町人も刀や短刀など殺傷力のある武器を所持することができ,また身分の上下に伴う権利や権限の格差が日常において社会生活のあらゆる面に適用されていた社会である。しかも,当時の刑罰体系において死刑は,刑罰として当然であり,磔も晒も当然のこととして人々に認識されている社会である。
そのような社会にあって,行刑役に対する人々の意識は,ボツマンのいうようなイメージだったのだろうか。

残虐な刑罰を命じる武士よりも,執行する被差別民の方を「殺人者」「悪行と残酷さの象徴」と思うだろうか。武士に命じられた役務であることも,犯罪に対する処罰であることも理解している人々が刑罰を執行する被差別民に対して,はたしてボツマンが述べるように思うだろうか。私にはやや単純すぎる発想のように思えるのだが…。

ボツマンは,当時多くの人々が市中引廻しを見に集まり,「鈴ヶ森刑場」や「小塚原刑場」で行われる公開処刑を見に集まっていたことや,処刑後の死体や斬首された生首が街道沿いなど目に付きやすい場所に晒されたことを重要視する。
その光景を「身の毛もよだつ(絶対に忘れられない見世物)」と評しているが,これもまた彼の感覚であり,現代人の感覚である。

ボツマンは,江戸時代の刑罰の数を非常に多いと考えている。
彼は,幕府が厳罰主義により人々を支配していた証拠であると同時に,残酷な処刑と晒による恐怖を与えることで治安と社会秩序を維持していたと考えている。
そして,その執行を実際に担い,人々からの「視線」を一身に身に受けたのが被差別民である。

…江戸時代の刑罰について信頼できる統計資料は数少ないが,その一つによると,1862~1865年の間だけでも江戸では磔が15回も行われたという。さらに,この4年間に10人の罪人が火刑に処され,毎年平均100人以上が斬首になっていた。これは,人口が当時の江戸とほぼ等しかった18世紀末ロンドンで絞首刑にされた人数の優に二倍を超える。
…引廻しにも,見物人に恐怖という形で権力を見せつけるという目的があった。さらに,大規模な行列が「特別な」出来事であったのに対し,どうやら引廻しは江戸町民の日常生活に近いものだったらしい。実際に,そう思えるほど回数が多い。江戸で引廻しになった罪人の数は,1862年が29人,1863年が16人,1864年が9人,1865年が17人で,年平均に直すと約18人だ。さらに,この4年間に生首が1年あたり30回ほど市中を通って刑場へ運ばれている。つまり江戸では,引廻しが年平均で50回程度行われていたことになる。これは,一週間に1回弱のペースである。
…敲は,棒で背中や臀部を50回または100回打つ刑で,これも軽犯罪者に科せられる重要な罰である。女性には適用されなかったが,江戸時代の刑罰の中で最も多く執行され,1862~1865年には,毎年江戸で800~1000人が敲を受けた。
…原則として,他人の命を奪った者は「下手人」という名の特別な死刑で罰せられることになっていた。…下手人は江戸時代の死刑の中で最も軽いと見なされ,実際に執行されることは,きわめてまれであった。1862~1865年の4年間で執行された死罪は285件程度だったのに対し,下手人が行われたのは,わずか二回にすぎない。

ボツマンは,自説の根拠を平松義郎「幕末期における犯罪と刑罰の実態」(『近世刑事訴訟法の研究』)及び『旧事諮問録』に求めている。

しかし,この史料は江戸時代の一時期,幕末の4年間の統計資料であって,江戸時代すべてに当てはまるはずもない。江戸時代は約270年間の長きにわたっている。それを幕末のわずか4年間,しかも尊王攘夷運動から倒幕運動へと世の中が大混乱している時期である。江戸時代の中期から後期にかけての安定期と比べて,時代背景・社会情勢がまったく異なっているのだ。

ボツマンは,時代背景を考慮して言及していない。時代背景が異なれば,人々の意識も社会意識も異なるのは当然である。

最後に,ボツマンは巻末に膨大な参考文献を挙げているが,石井良助『江戸の刑罰』よりの孫引き的な記述が多く,それに基づいていると思う。



部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。