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「明六一揆」論(3):宰務正視

『調査と研究』(岡山部落問題研究所)に連載された「美作血税一揆の周辺より」(水内昌康)を参考に,宰務正視と首謀者とされた筆保卯太郎についてまとめてみたい。

宰務邸の裏山にある墓地の中央に,二段積みの基壇の上に高さ1メートル50センチ,幅80センチの石碑が建っている。
明治六年,明六一揆の際,津川原部落に押し寄せてきた一揆の徒党によって,102戸の家が焼かれ,村人から18名の犠牲者がでた。部落長であった喜市(喜一郎),その子龍太郎,喜平の3人が惨殺された。
その霊を弔うため,五十年忌にあたる大正十一年(1922)に建立したのが,この慰霊碑である。碑の裏面には,次のように刻まれてある。

廣 明治六酉年五月二十九日  寂
   俗名 宰務喜市   行年四十歳
敬 同             日  寂
   俗名 宰務龍太郎 行年廿二歳
宰 同             日  寂
   俗名 宰務喜平   行年十六歳
智 明治三十四年七月廿七日  寂
   俗名 宰務みゑ   行年七十歳

「廣・敬・宰・智」は,廣道・敬了・宰證・尼智栄の各法号の略である。宰務みゑは凶徒に亭主と二人の子を眼前で殺された正視の母である。事件当時は6歳であった正視は,隣村の知人宅の長持の中に隠されて難を逃れた。彼は,夫と二人の子ども無惨に殺された母のその後を見てきただけに,母もまた犠牲者であることを強く思っていたからこそ,その母を一緒に弔ったのである。

慰霊碑の文面については,積年の風雪によって削れ,判読は難しい。私も幾度か直接に判読を試みたが,諦めた。その後,作陽高校の妹尾進治先生が書き写されたコピーと好並隆司先生の現代語訳から内容を理解してきた。

今回,新たに水内昌康氏の「原文」と読み下し文を知ることとなり,ここに転載し,研究の資料としてもらいたいと思う。

(原文)
明治六年我邸宅漠然帰烏有 而父母則
歿凶徒之刃 遺憾非口頭之所得而盡
籲天哭地 歔欷哀慟 継以吐血 然余
等時齢尚浅 不知其所為 空待官衙之
手 雖慚誅之 亡者之丹心末全徹底
国民回顧今茲大正十一年則其五十回忌
也 上墓而憶往事 愁膓不措 取数行
之涙而代墨 賦七律一首 還而呈霊碑
往事茫々跡亦荒
回顧五十有星霜
恨憑舊蘇生無己
愁共浮雲凝愈長
数縷香煙添寂寞
一雙哀鷓哭蒼茫
喟然呑涙人空立
読尽寒碑送夕陽
   男 楠山 宰務正視 拝選
(読み下し文)
明治六年我邸宅漠然トシテ烏有ニ帰ス
而シテ父兄則チ凶徒ノ刃ニ歿す。
遺憾口頭ノ得テ盡ス所ニアラズ。
天ヲ籲,地ニ哭シ,歔欷哀慟,継イデ以テ血ヲ嘔ク。
然シテ余等時ニ齢尚浅ク其ノ為ス所ヲ知ラズ。
空シク官衙ノ手ヲ待チテ漸クコレヲ誅ストイエドモ
亡者ノ丹心イマダ全ク徹底セズ。
国民回顧ス今茲ニ大正十一年則チ五十回忌也。
上墓シテ往事ヲ憶イ愁傷措カズ。
数行ノ涙ヲ取リテ墨ニ代エ,七言一首ヲ賦シテ還シテ霊前ニ呈ス。
往事茫々トシテ跡亦荒ル
回顧スレバ五十有星霜
恨憑舊蘇生ジ己ムコトナク
愁,浮雲ト共ニ凝リテ愈長シ
数縷ノ香煙,寂寞ヲ添エ
一雙ノ哀鷓,蒼茫ニ哭ク
喟然涙ヲ呑ミテ人空シク立チ
塞碑ヲ読ミ尽クシテタ陽ヲ送ル。

水内氏は,次のように書いている。
宰務正視は,諱は子欽,字は織憲,楠山と号した。また,溶月堂,鶴夢庭とも号し漢詩に造詣が深かった。明治二十二年,父兄達の十七回忌にあたって,すでに,この詩文の草稿を作っていたが,長年世に出すこともなく,五十回忌にあたり序文の一部を改めて碑に刻したのである。
これについて,私は別項において言及しているので,ここでは書かないが,「草稿」と大きくちがうのが,【亡者之丹心末全徹底国民 回顧今茲大正十一年則其五十回忌】である。「草稿」では,【未可謂十分報之,回顧茲明治二十二年則其拾七回忌也】となっている。

この件に関して,好並隆司氏の論文に言及してあったので,ここに転載して真偽を正しておきたい。(「明治六年美作一揆の再評価」『近世中国被差別部落史研究』所収)

…明治二十二年に(宰務)氏は「謁父兄墓」詩を作り,父兄を弔った。…ついで大正十一年は父兄の五十回忌にあたるので,津山市三浦にある宰務家墓地に碑をたてて,みぎ序文と賦とを刻んだ。文章は明治二十二年と十七回忌の語句が変更されているだけである。しかし,大正十一年十一月五日発行,大土井鳧川編集の『隠れたる偉人』と題する小冊子では,右序文の傍点の箇所が「空待官衙之手雖慚誅之,亡者之丹心末全徹底国民,回顧今茲大正十一年」と改められていて,報復がなお十分でないとする部落民の怨みが,「亡者之丹心末全徹底国民」と死者主体に移されて,国民に真の心がわかっていないとして,国民融和への志向を示している。…原文を改竄をしたものと思われる。…「調査と研究」誌37号で,水内昌康氏は石碑を写真にとりながら,本文を大土井氏改竄の国民融合論的文章を本文として紹介している。氏の誤りを訂正しておきたい。

以上の好並氏の解明により,上記の水内氏の紹介している碑文がまちがっていることが判明した。あらためて,好並氏の論文より慰霊碑の碑文を次に引用しておく。

明治六年我邸宅漠然歸鳥有,而父母則歿凶徒之匁(刃),遺憾非口頭之所得而尽,籲天哭地,歔欷哀慟,継以嘔血,然余等時齢尚浅,不知其所為,空待官衙之手雖慚誅之,未可謂十分報之,回顧今茲大正十一年則其五十回忌也,上墓而憶往事,愁傷不措,取数行之涙,而代墨,賦七律一首,還而呈霊牌
往事茫々跡亦荒,回顧五十有星霜,恨憑舊蘇生無己,愁共浮雲凝愈長,数縷香烟添寂寞,一雙哀鷓哭蒼茫,喟然呑涙人空立,讀盡寒碑送夕陽

除幕式の当日,正視は霊前に次のような奉告文を捧げている。

維時大正十一年壬戊之年五月廿九日,回顧スレバ,去ル明治六年国政未ダ緒ニ就カス綱紀尚揚ラサル蒙昧ノ時ニ際シ,我ガ作陽未タ會テ古今ニ見サル大惨事ニ遭遇シ,父兄則チ其渦中ニ投シ千秋ノ恨ヲ呑ンテ空シク匪徒ノ為メニ没セラレシ五十回忌ニ相当ス。
熟々惟レバ春風秋雨既ニ半世紀ノ久シキ子孫尚未ダ其庇護ヲ受ク,不肖正視,転タ追憶ノ念ニ堪ヘス茲ニ粗末ナル碑石ヲ建設謹テ奉告ノ式ヲ挙グ,父兄ノ霊請フ饗ケヨ大正十一年五月二十九日
                 男 正視拝告

正視は明治42年に部落救済のために「備作廊清会」を組織し,官庁などの応援を得るために働きかけている。その趣意書は,風俗の矯正,勤勉貯蓄の奨励など部落改善運動の域を出るものではなく,時代の制約を受けている。
しかし,当時の岡山県知事谷口留五郎を訪問し,廊清会の組織について支援を求め,激励を受けている。また,県下の各部落を訪ね,会の拡大のために尽力している。
残念ながら,進展が望めず志半ば中断し,一時期は津山で「作陽公論」を発刊するなど自己の理想を文筆に託して展開していたが,晩年は自適の生活を送り,昭和十四年に71歳で他界した。

彼の人生を考えるとき,常に脳裏にあったものは父兄を惨殺した「明六一揆」であったと思う。
父兄が殺害された川原を眺め,焼け落ちた屋敷跡で,母親や周囲から津川原の惨劇を聞いて育ち,青年期には郷里を離れて京都に暮らし,後に東京で慶応義塾に学び,一時は大阪に私塾を開校しながら,それでも彼は郷里に戻ってきた。
彼は必死に,その理由を探していたのだろう。なぜ襲われなければならなかったのか。なぜ父兄は彼らに殺されなければならなかったのだろうか。部落解放運動に身と私財を投じたのも,彼の無念の思いからであったと思う。

焼かれた屋敷跡に暮らし,襲ってきた本人やその子孫を目にしながら日々を過ごす,その心情は如何なるものであっただろう。人力車とお抱えの車夫を持つ彼は,車上から近隣の農民を見下ろし,意趣返しをしたというが,本当の彼の心情はわからない。
それは,今も加茂谷,美作にある「現実」なのだ。決して過去のことではない。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。