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「近世政治起源説」批判(1)

山本尚友氏が整理されている「近世政治起源説の三類型」「近世政治起源説の功罪」についてまとめながら,「近世政治起源説」がなぜ(どこが)問題であるかを明らかにしていこうと思う。

解体・再編説(原田伴彦)
中世社会における賤民身分がそのままの形で近世社会に入っていったわけではない。戦国時代,日吉社の神官の息子であった豊臣秀吉や美濃の油売りであった斎藤道三などのように,身分の低い者が高い身分へと実力(武力)によって成り上がっていく下克上の風潮がおこる。中世の賤民身分もこのような社会の動きの中で消滅しかけており,その消滅しかけていた賤民制度を,近世権力である織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が新たに近世において再編したのが近世の賤民制度である。

この説の問題点は,身分の解体と下克上が必ずしも概念として同じにならないということである。つまり,油売りの斎藤道三が個人として戦国大名になったのが下克上であって,「油売り」そのものは商人の中でも低い身分であるという社会的位置は変わらないまま江戸時代につながっている。
穢多身分にしても,中世の京都では「河原者」といわれ,豊臣秀吉が検地をしたときは「かわた」という呼称になり,江戸時代中期以降に「穢多」という呼称に変わっていくけれど,彼らが日本社会の中で人間外・社会外の存在として位置づけられているという身分上の位置は,中世から江戸時代に至るまで同じ位置に置かれ続けてきているのである。

このことから,中世の賤民身分は基本的には同じ枠組みで近世につながっているといえる。なぜなら,賤民身分の多くが権力に何らかの形で保護され庇護される特性をもっているからである。穢多身分の場合,軍需品である皮革を生産して上納すると同時に,武士の下で刑吏役を担うことで一定の給分と土地を保証されている。であるから,他の職人身分などが流動的であった戦国時代にあっても,かわたや河原者という皮革を武士に供給する賤民集団は武士に把握され続けている。このことは近世初頭,江戸時代においても変わっていない。

社会構造断絶説(脇田修)
中世社会と近世社会とが基本的に社会構造として異質であること,たとえば武士階級による支配のあり方などが異なっていることをベースに,独自の役負担を課せられた近世賤民と中世賤民をひとつのつながりのものとして理解すべきではない。近世の被差別部落はこのような固有性があるから「近世部落の起源」は近世初頭にしか求められない。

秀吉が出した中間奉公の禁止令によって町人・百姓が武士に奉公することが禁止され,刀狩令によって帯刀が禁止される中で近世身分制度が整備されていき,近世の百姓は基本的に帯刀せず名字ももたず農業に専念して村に住む人間と定義される。
それに対して中世の百姓(上層の百姓であれば)は刀や名字も,自分の領地や家来さえもっている。
このように,近世の百姓と中世の百姓ではまったく違っている。しかし,近世百姓の起源は近世の初頭に求めても,百姓の起源は近世初頭には求めず,古代の百姓に求めている。同様に,近世賤民身分の起源は近世初頭に求めることはできても,賤民身分の起源は近世に求めることはできない。

近世権力創設説(船越昌・石尾芳久)
近世権力が一向一揆に参加した民衆を被差別身分にすることで,被差別部落をつくった。

この根拠とされるべき事例,一向一揆に参加した者が被差別身分にされた例が一例もない。
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このような批判や問題がありながらも,「近世政治起源説」が部落史研究上で果たした役割は大きく,特に次の2点が成果と考えられる。

○「近世政治起源説」によって,初めて本格的な近世賤民制度の研究が始められたこと。
○ 賤民制度として,中世と近世の非連続性が明らかにされたこと。

つまり,中世ではかなり流動的であった身分制度が近世社会で再編され固めなおされて,その中で被差別部落が再定置されていくことが明らかにされた。
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次に,「近世政治起源説」が生み出した問題点(功罪)をまとめておく。

その第1は,身分制度に対する政治権力の関与について過大に評価しすぎたという点である。

身分が政治権力とまったく無関係に生成したり定着したりすることはありえないが,逆に身分を創造するということもありえない。権力ができるのは,すでにある身分を合わせたり分割したりすることであって,無から有を生むような身分創設はできない。
にもかかわらず,政治権力が被差別部落を創出したとする「近世政治起源説」が長く戦後社会の中で続いてきた最大の要因は,部落解放運動が長い間「行政闘争」を中心に展開してきたことだと考えられる。

解放運動の主流が行政闘争中心であった時代,「政治権力がつくったものを,今の権力がなくすのは当然である」を大義名分にして行政施策(同和事業)を要求してきた運動体にとって「近世政治起源説」は都合の良い理論であったのである。そして,行政闘争だけで部落差別を解決することが無理だとはっきりしてきたことを背景に,部落の中世起源が見直されるようになったのである。
つまり,部落差別は確かに権力によってつくられ,権力によって維持されていくが,それは日本社会の構造に合った形でつくられ,日本社会がそれを内面化し続けてきたからこそ今も差別が残っているのである。
このことを明らかにし,日本社会の根底にあって差別を容認させてきた社会の有り様そのものを考えていくためには,中世起源から考察していく必要がある。 

第2は,被差別身分を創出することができるほどに政治権力が絶対であり巨大であり,権力の意図するとおりの社会が江戸時代に実現したという錯覚を人々に与えたということである。

「民衆の団結を防ぐための分断支配」として,あるいは「重い年貢を搾取される百姓の不平や不満をそらし,一揆を防止するための鎮め石」として被差別身分が存在させられ,悲惨な生活を余儀なくされたというイメージを人々の中に作り上げたのである。なぜなら,権力の絶大さを強調することで「近世政治起源説」の信憑性が高まるからである。

はたして江戸時代の政治権力はそれほどに強大で絶大なものであったのだろうか。教科書に記述されている「百姓一揆の件数グラフ」は年を追うごとに件数を増やしている。このことは,分断支配の効果がなく,一揆の防止にも役立っていないことを証明している。あるいは,杵築藩では,10年間の年貢皆済の恩賞として,その村役人・平百姓・穢多身分すべてに褒美を与えている。ただし,褒美は身分間で差が設けられていた。

「近世政治起源説」は解放運動の流れや同和教育の流れの中で,教育・啓発の場での「わかりやすさ」を重視した結果,「身分制度のピラミッド図」のような極端な図式化,『カムイ伝』のような一面的な解釈が行われたのである。この図は身分の違いを「上下」に表しているため,「価値あるもの=武士」「価値のないもの=部落」として認知され,「悲惨な部落」が強調されてしまう結果を生んだ。

そして,明治以後の歴史過程の中で「社会の最底辺で,貧困で悲惨な生活をする部落」となっていったにもかかわらず,その原因を江戸時代の政治権力に求め,その悲惨な実態は江戸時代から変わらず現在に至ったと認識されようになったのである。「江戸時代の権力者が悪い」「自分は(江戸時代の)部落に生まれなくてよかった」といった生徒の感想も当然のことだ。なぜなら,部落差別は過去に発生した問題であり,自分たちに責任も関係のないことと受けとめてしまうからである。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。