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目的論の陥穽(2)

武田氏の考察は、なぜ戦後も「絶対隔離政策」に対して非難の声が上がらなかったのか、について重要な視点を提示している。

戦前の療養所=ユートピア論も病者のいない国を理想と見なし、その実現の時点で隔離政策の意味が成就されるという点で目的論的だった。そのバトンを渡されたのが神谷(美恵子)だった。神谷が行ったこと、それは目的論的な考え方のさらなる抽象化・普遍化だった。神谷が療養所を語る時、国家主義の匂いはしない。国土浄化等々の目的は語られない。
しかし、目的論的思考はそこでむしろ純化されている。神谷がよって立ったのは人間の人生の意味が未来において成就されるとみなす、より普遍的な立場である。そんな神谷の立場はその抽象性ゆえに広範な訴求力を持ちえた。神谷は戦前の隔離思想にも構造的には窺えた目的論的思考を、国家主義的文脈から引き剥がしても成立する普遍的な「生きがい論」にと意匠替えして戦後社会に送り出したのだ。

…神谷の生きがい論が療養所をふたたびユートピアとして描いたため、隔離政策を省みる真摯なまなざしの成立が遅れた事情は否めない。療養所がユートピア=良き場所であるという神谷の主張は、病者との共存を快く思わない世間にとって実に都合が良かった。いうまでもなく、そこに病者を閉じ込めておくことへの罪悪感を感じなくて良くなるからだ。

武田徹『「隔離」という病い』

戦後においても「絶対隔離」が継続し、「無らい県運動」によってハンセン病患者が療養所ヘと送り込まれた最大の要因は、療養所に入らなければ「プロミン治療」を受けることができなかったからである。

…このような正しい方針(1948年11月の衆議院厚生委員会での厚生省医務局長東竜太郎の発言)は絶対隔離論者の激しい反対で葬り去られ、全患者を収容隔離する従来の方針を継続すると国が決めたことである。ハンセン病は伝染性の疾患であり、小児に対する伝染性は相当に強いというのが理由で、ダプソンなどの新しい化学療法剤の導入によって世界が従来の方針を抜本的に見直したという情勢の変化は全く考慮されなかった。

1953年、政府は患者の激しい抗議を押し切って終生隔離を基本理念とする「らい予防法」を制定するとともに、一般病院でのハンセン病治療を不可能にして絶対隔離政策を続けた。戦前に続けて無らい県運動が活発になり療養所に収容された患者数はこの頃が最も多くなっている。こうして隔離政策が急速に厳しくなる中で、国民の中に造成されていたハンセン病に対する恐怖心と差別意識はさらに強まり、一家心中など多くの悲劇が生まれ…。

和泉眞藏「無らい県運動と絶対隔離論者のハンセン病観」

1941年、アメリカでハンセン病に大きな効果を発揮するプロミンが開発され、1943年にはその効果が認められた。1947年以降、日本でもプロミンの画期的な効果が発表され、ハンセン病は「完治する病」となった。

それでも、光田健輔はプロミンの効果への疑問を抱き続ける。「らい予防法」改正の渦中にあった1953(昭和28)年7月、プロミン治療により無菌となった患者が出現していたにもかかわらず、「患者の全身が無菌状態にあるかどうかは、患者が死亡して、死体を解剖して調べてみなければ医学的にいう全治とはいえない」「一つの薬がライに対して本当に効目があるかどうか分かるのには、少なくとも十年経過してみないと断定を下すことは危険である」とかたくなな姿勢を崩そうとはしなかった。…

なぜ、ハンセン病患者への隔離が改善されるどころか強化されていったのかということについて、以前から疑問であったが、人権意識とプロミンを武器に患者が隔離に応じなくなったり、療養所当局に反抗的になったりすることを想定して、隔離を強化したのではないかと考える。

藤野豊『「いのち」の近代史』

なぜ光田がここまで「絶対隔離」に固執したのか。長年にわたって築き上げてきた第一人者としての権威が崩れることを恐れたからなのか。医学の進歩や新しい治療薬の出現に逆行するかのような光田ら絶対隔離論者の対応はなぜなのか。

光田と神谷に通底する構図、それはユートピアを夢見て、それを志向する動きが排除に繋がってしまうというものだ。ユートピアの実現に貢献することにこそ人生の意味があると信じ、積極的かつ献身的活動をする人の活躍によって、その排除は時に暴力的なまでの激しさを持つようになる。…

個人が個人の生活の範囲内で理想の未来社会=ユートピアを想定し、その実現を人生の目的として活動すること自体に罪はない。しかし、忘れてはならないのは設定された目的は、所詮、主観的なものに過ぎないということだ。ある程度多くの人が同じ方向を向き、足並みを揃えることで同じ理想を想定することはありえる。しかし、それは偶然、ひとつの理想像を多くの人が共有しているということだけであって、「主観的な夢」としての脆さから逃れられるものではない。…

しかし、そうした脆い理想像を信奉する人が、仮構性を忘れてその唯一絶対的な正しさを主張し、自分たちとはちがう立場の人々=他者を排除してゆくことがありえる。そして時として酷薄なまでの暴力を用い、その絶滅を望むようにすらなるー。

武田徹『「隔離」という病い』

光田健輔たち絶対隔離主義者が夢想した「大家族主義」に基づく療養所というユートピアが「主観的な夢」でしかない以上、それは「脆い」ものであった。そのユートピアを実現するという「目的論的な構図」のために、意に反する者たちは「排除」されてきた。懲戒検束権という「暴力」の正当化により、「特別病室」や「ライ刑務所」が設置され、実動された。

なぜ光田たちは自らの行為を省みることがなかったのか。なぜ多くのキリスト教の信徒でもあった医師が「強制収容」「断種・堕胎」「特別病室」「ライ刑務所」を是認したのか。なぜ日本MTLは光田らを盲信したのか。武田氏の考察が彼らの盲従を解明している。

…自分が仮構した人生の目的を唯一絶対視し、そうした多様性を無視してしまうこと、一つのユートピアを目指して、邁進することが排除の論理を作動させ、暴力の発生に繋がる。

病者のいない社会を理想視し、病者を隔離し、滅亡させるという方法の暴力性についてはいうまでもない。光田の隔離主義は悪しき帝国主義的ユートピア主義として批判されてしかるべきだ。そして、自分たちの加護の下での「救らい」は認めるが、その範疇を出ることを許さないキリスト教「救らい」活動家たちもその例外ではない。

武田徹『「隔離」という病い』

自説に固執し、他説を批判するのではなく、他者その人を非難する人間もいる。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。