見出し画像

「明六一揆」論(2):自供書

『備前・備中・美作百姓一揆史料』(第5巻)所収「北条県史」は,明六一揆についての北条県の公式記録であり,騒擾顛末と処刑の部からなっている。騒擾顛末は「騒擾顛末御届」「騒擾ニ付殺傷破毀焼亡取調」「元魁筆保卯太郎之口供」と事後処理記録からなっている。処刑の部は臨時裁判所の取調口供と申渡書,及び「処刑之義ニ付御届書」を収録している。

実際に殺害に関わった者たちの思いを「自供書」より推察することで農民の意識を分析できる。
この各人の「自供書」に共通するのは,なぜ部落を襲ったのか,襲うに至った心情的理由を述べた箇所である。
取調によって自白したものであり,その「口供」であることから,取調官による誘導尋問や供述の要約があったことは十分に考えられるが,部落に対する憎悪や憤慨など心情面については,程度の差こそあっても,農民の意識は共通であったと思われる。

…穢多号ヲ御廃止之後,従前ノ身分ヲ忘レ,兼テ不礼之仕向不少。
(宇治貞蔵)
…右称号御廃止以後,自ラ不遜ニ有之,兼テ悪マシク存ジ,…
(芦谷島五郎)

各人の「自供書」に見られる共通した心情的理由である。より詳しく述べているのが,津川原部落襲撃の中心人物であった小林久米蔵である。

…穢多号ヲ御廃止ノ後,近村ノ者ヘ対シ不敬ノ仕向不少候付,元身分ノ通,下駄傘等ハ村内ヨリ外ヘハ不相用,且,近村ノ平民ヘ用向有之節ハ,門外ヨリ草履ヲ脱ギ,途中ニテ出会候時ハ頭ヲ地ニ下ゲ礼譲正敷可致,…

この小林の供述によれば,「従前ノ身分」=「穢多」が守るべきルールは,下駄や傘を部落の外で使用しない,一般村の家の門内に入るときは履いている草履を脱いで入り,道で百姓と出会ったら,頭を地につけて土下座して礼儀を尽くすことであった。

「自供書」に「穢多号ヲ御廃止之後」「右称号御廃止以後」とあるように,「解放令」が大きな起点,ターニングポイントとなったことはまちがいない。「解放令」を喜びをもって受け入れた部落と,納得(承知)できない一般町村との決定的な認識の差が部落襲撃に至った根本的な要因である。

美作国勝北郡妙原村農  鈴木七郎治
拷問三度
自分儀,兇徒ニ脅誘セラレ,無拠当五月二十八日村方一同随行シ,所々立廻リ,其日ハ唯随行迄ニテ帰宅致,翌二十九日,津川原村ヘ前日ヨリ押寄候党民挙動盛ナル由承リ,自分ニモ旧穢多之心得方兼テ悪マシク存ジ居ル折柄ニ付,同所ヘ赴キ,山手ニ潜伏致シ居ル旧穢多共ヲ党類共ヨリ縛出シ,加茂川筋河原ニ於テ殺害可致様子ニテ多勢屯集之処,宰務喜一郎二男喜平儀,大勢ノ中ニ畏縮シ居,自分ニ向ヒ可助呉様歎出ル処,一体,旧穢多共兼々不遜ニ有之而己ナラズ,最初諸村ヨリ押寄候節,村内ニ柵ヲ拵ヘ,抗搆スベキ勢ヲナシ候由承リ,甚不快之儀ト存ジ居,喜平一人ヲ別段悪ムニテハ無之候得共,右醜族ノ者ニ付,忽然可殺トノ念慮差起リ,右歎ヲモ取合ヒ不申。
其内,宰務喜一郎等ハ五六間上手ニ於テ巳ニ害セラレ候様子ニテ,一層乱雑中,傍ニ之レ在ル喜平母ミエヨリモ,尚更衆人ニ向ヒ,喜平ハ幼年者ニ付,何卒,一命ハ相助呉候様,只管相歎候得共,自分ニハ既ニ殺念相兆ス上,酒気ニ乗ジ,多勢ニ向ヒ,殺害スベシト喚ハリ候処,素ヨリ可突殺勢ニテ相構ヘ居ル村名前不知者共,各右喜平へ竹槍ヲ以テ手ヲ下シ,終ニ絶命ニ及バセ申候。右之外,同所ニ於テ追々ニ殺害サルヽ者数人有之候得共,自分ニハ関係不致,右一挙治リ候後致帰村候。
然ル処,前書ミエ儀,自分ヲ殺スベク指揮致シ候ヨリ,遂ニハ喜平ニハ殺サレ候儀ト,遺恨ヲ含居ル由ニ伝承致シ候間,右之段,其筋ヘ訴ラレ候ハヾ,御糺明ヲ受候ハ必定ト存ジ,同六月一日,ミエ方ヘ立越シ,相慰ニハ,喜平儀,自分ヨリ指図致シ殺害ニ逢候次第ニテハ會以テ無之,助遣度トハ存ズレドモ,其場ノ勢,迚モ力ニ及ズ,如何トモ党民共免スベキ場合ニハ無之ニ付,非常之不仕合ト思諦ラムベク,必ズ自分ヲ怨ミ申間敷,且,斯ク申儀ヲ召仕之者迄モ口外不致様申付可置ト,我非ヲ掩ン為,申聞置候事。
右之通相違不申上候。以上
 明治六年十月           鈴木七郎治

鈴木七郎治は,小林久米蔵と同じく津川原村の本村にあたる妙原村の者である。二人は直接には殺害を行ってはいないが,津川原の村民を選別する役割を担い,殺害を指揮(扇動)した罪で処刑(斬罪)されている。

自供書によれば,当時16歳の宰務喜一郎の二男喜平が自分に助命を嘆願してきた。特別に喜平だけが憎いわけではないが,かねてから彼らのことを「不遜」と思っていたこと,最初に津川原に押し寄せたときも柵を作って抵抗する姿勢を見せるなど甚だしく不快な思いをさせられたことから,喜平も同じ「醜族の者」なので,すぐさま「殺意」が起こり,願いに応える気持ちにならなかったと述べている。

夫と長男を惨く殺されるのを直前に見た母親が必死に二男の助命を哀願しているのを見ながらも,冷酷に「殺せ」と命じた彼の心情はいかなるものであっただろうか。
この自供書からは罪の意識は感じられない。怒りや憎しみのみが自己正当化として語られている。

農民たちは,なぜ部落を殺戮したのか。
選別した上で残酷に殺害した動機は何だったのだろうか。殺戮にまで高ぶった憎悪や憤怒の原因は如何なるものであったのか。

鈴木の自供書にある【喜平一人ヲ別段悪ムニテハ無之候得共,右醜族ノ者ニ付,忽然可殺トノ念慮差起リ,右歎ヲモ取合ヒ不申】の一文に,その理由がある。

彼は,母親の哀願を退けた心情として,【醜族の者】であるから喜平一人を許すわけにはいかなかったと述べている。つまり,個人に対する「憎悪」「憤怒」ではなく,津川原村など部落民にすべてに対する「憎悪」「憤怒」である。

【自分ニモ旧穢多之心得方兼テ悪マシク存ジ居ル】【旧穢多共兼々不遜ニ有之而己ナラズ】と述べる心情は,他の者の自供書と同じく,解放令発布後の部落民の態度に対する激しい憤りが吐露されている。自供書に述べられている【…元身分ヲ忘レ】(小林久米蔵)【…従前ノ身分ヲ忘レ】(宇治貞蔵・大谷類治郎・小島伴治郎)が意味するものは何か。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。