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フラナリー・オコナー語録

◎小説の本質と目的
作家などというものは存在しないのである。

芸術は題材と方法どちらにおいても真実を基礎とする。

現代は優れた作品よりもひどい作品のほうが経済的報酬をずっと多く得る時代だ。

最上の作品にうかがわれる技術は、素材そのものから出てくる有機的なものである。

泥だらけになるのがいやな人は、小説なぞ書こうとするのはやめたほうがいい。そんなに偉い人間のすることではないのだ。
以上のような考えを頭に叩き込み、習慣の中に組み込んではじめて小説を書くということがどれほど厳しい労働であるかが見えてくる。

作者は、人物と事件で語るのであって、人物と事件について語るのではない。

真剣な作家は、その描く情景がどれほど限定されたものだろうと、つねに世界の全体について書くものである。

小説を書くことは現実の逃避になるだろうと、暗に言う人たちには、私はいつも非常に腹がたつ。創作は、現実への突入なのであって、体にひどくこたえるものなのだ。もし小説家が、書いている間、金銭報酬の希望によって己を支えているのでないとしたら、あとは魂の救済の希望によって生きていくほかはない。でなければ、本当に書く苦しみに負けてしまう。

いい作品を理解できる精神は、必ずしも教育を受けた精神ではない。しかし、それはつねに、現実との接触によって神秘を視る感覚を深め、神秘との接触によって現実を視る感覚を深める用意のある精神である。

どんな種類のものであれ、才能は、一つのかなり重い負担である。それは、まったくいわれなく無償で与えられるものであり、本来、なぞめいたものだ。その真の効用というのも、われわれの目からつねに隠されたままだろう。芸術家は、自分の才能を誠実に使おうとすれば、ふつう、いくつかの不自然に耐えなければならぬ。芸術は、実践的知性の持つ一つの美徳であり、美徳の実践は必ず禁欲を強いるのである。自我の、あのけちくさい部分を、決然と捨てることが求められるのだ。作家は、自分を、第三者の目で第三者の厳しさをもって採点しなければならぬ。作家の中の予言者は、同じ作家の中に怪物をも見なければだめなのだ。芸術は自我の中に埋没したりはしない。それどころか、芸術における自我は、観察したものと創作されつつあるものが出す要求を満たそうと務める中で、自らを忘れてしまうのである。

聖トマスは、芸術を「理性の行使」と言った。これは非常に冷厳で美しい定義である。

ものを書くことを可能にするために、発見・応用できるような技術は何もない。
作家は、絶対に凝視することを恥じてはならない。作家の本務は経験をじっくりながめることであって、その中にどっぷり浸かることではないのだ。


◎物語の意味
物語は感覚をとおして働くものだ。みんなが物語を書くのをあれほどむずかしいと思うわけの一つは、忍耐づよく時間をかけて感覚から納得させるということを忘れているからである。/小説の特色の中もっとも重要でしかももっとも明白なものは、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚によってとらえられるものをとおして小説は現実を扱うということである。
これは頭だけでは覚えられない。習慣の中で身につけられるべきものである。

駆け出しの作家の物語には、たいがい情緒があふれかえっているものだ。しかし、それが誰の感情なのか判断するのが非常にむずかしいことが多い。会話が、実際に読者が見ることのできる人物に支えられぬまま進行することはしょっちゅうだし、中にくみこめない思想が物語の至るところから漏れだしていたりする。その原因は、ふつう、作家志望者の全注意が自分の思想や感情のほうに行ってしまい、劇的行為には関心を示さないところにある。また、怠惰か傲慢であるかして、小説の動く場である具象のレベルに下りていくのを嫌うのも原因になっている。初心の作家は、作品のあるところで自分の判断を述べ、感覚的印象は別の箇所でというふうに考える。しかし、真の作家にとっては、判断は、自分の目に見える細部と、その細部を自分がどう見るかというところからはじまるのである。

ある物語についてその主題を論じられる場合、すなわち物語の本体から主題を引き離せるとき、その作品はたいしたものではないと思っていい。意味は作品の中で体を与えられていなければならない。

短編小説家に特別の問題は、自分の描く劇的行為をとおして、どのようにしたらできるだけ多くの生の神秘を露わにできるかということである。それをするのに、使えるスペースは小さいし、意見を形で表すこともできない。作家は、言うのではなく、示すことによってそれをしなければならないのだ。

小説を書くということが、意識的、無意識的精神の領域を含めて全人格が参加する何かであるということは、明らかな事実である。芸術は、芸術家の習慣なのであって、習慣は、人格全体に深い根を下ろしたものであるはずである。他のすべての意識的習慣と同様に、芸術の習慣も、長い時間をかけて、経験をとおして養われなくてはならない。/ある意志をもって創られたこの世界を見ること、ものの中にできるだけ多くの意味を見出せるように五感を使いこなす習慣とでもいえると思う。

優れた物語は、縮小できない。つねに拡大されるだけである。中にますます多くのものが見えてくるとき、いつまでも理解の及ばぬ部分を残すとき、その物語はよいできである。

たいていの場合、作家はまず作品の劇をなす行為を思いつき、それからそれを遂行する人物をひねりだすのではないかという気がする。しかし、ふつうは、逆の順序で仕事を進めたほうが成功するだろう。真の性格、真の人物を得て書きだせば、何かしら必ず起こるものだ。


◎自作について
説明的な言い換えにあくまで抵抗し、読者の胸にしつこく残ってひろがっていくというところがなかったらどんな物語も本当には優れたものとは言えない。

現代は、ほとんど感覚ではとらえられない恩寵の入来を見る鋭さを失っているばかりか、その入来に先行し、また後につづく暴力の性質に共鳴する心ももはや持たない。ボードレールが言ったように、悪魔のもっとも狡猾な企みは、悪魔が存在しないとうまくわれわれに信じ込ませることなのだ。

真実とは、かなりな犠牲を払ってでもわれわれが立ち戻るべき何かである、という考えは、気まぐれな読者にはなかなか理解されなれない。

カトリック教信仰の作家は、罪を犯すことによって人は自由を失うと信ずる。だが、現代の読者は、罪によって自由を得ると思っているらしい。この二つの態度の間に相互理解の可能性はほとんどない。だから作家が超自然的なものを明らかにしたいと思えば、自然の世界をますます真実に近づけて描く力をつけねばなるまいと私は思う。なぜなら、もし読者が作品中の自然の世界を受けいれ難いと思えば、他の何も受けいれないだろうことは確かだからである。


フラナリー・オコナー「秘儀と習俗」より

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