スーパーカーが好き

定期的にやりたくなるたよりのない精神的自傷のひとつに、「スーパーカーを聴く」というのがあります。スーパーカーを聴く時のなんとなく幸せな心の痛みを、楽しんでいるのか苦しんでいるのかよくわからない状態でやり過ごす大人の遊びです。



1995年、青森の片田舎で気まぐれに結成されたバンドは、全速力で私たちの思春期に駆け込んできました。抽象的な歌詞と都会的でエモーショナルなサウンドが、若さのもたらす万能感を強く焚き付けるようで、たくさんの青春が熱に巻き込まれていくさまを(まだぴちぴちだった)肌で感じていました。
自転車で坂道を下りながら、友達に借りたMDプレイヤーで聴くスーパーカーは、制服に包まれた幼い人生に染みいるようで心が躍りました。暗い青春の中で、私が普通の高校生でいられる限られた時間の記憶だったような気がします。


それでもいまだにスーパーカーが「懐かしい青春の音楽」として美しく消化されずにいるのは、多分、このバンドが猛烈な輝きを放って若者の心を攫い、そのまま葬花をまき散らして転げ落ちていったからだと思っています。私たちはどれほど明媚な景色に心を打たれても、それが燃え尽きてしまうときには打つ手なく立ち尽くすしかない、力のない生き物です。

人生を構成する要素のほとんどは退屈と絶望ですが、どの人生にも、産まれてきた意味を深く諒解するための特別な時間が、思いがけず用意されているものだと思っています。その瞬間のことを人は奇跡と呼び、愛し、それが続いていくことを希いますが、待ち焦がれた季節は日常にはなり得ず、訪れたそばからたちまち失われていってしまいます。
それでも、そのとき心の中に堆積した愛おしい記憶により、多くの人の生は強いて繋がれていくものなのだと思うのです。ふたたび訪れるのかどうかもわからない最愛の時間に、いつかまた触れたいというささやかな祈りは、私たちをこの世に縛り付ける絆しでもあり、一方でときどき光として立ち現れる希望でもあります。




最後のライブでは、メンバーが去ったあとの誰もいないステージで、この曲が響いていたそうです。





スーパーカーの活動期間はたったの10年でした。私たちの人生はそれよりずっと長い時間続いてきて、そして続いていきます。まるでただ静かに夢を見ているように、「そういう時間」が自分の人生にも確かにあった、その霞んだ思い出と不確かな希望だけを頼りに、襟を正し、スニーカーの紐を結び、また孤独にあゆみを進めていきます。


生きていく中で新たな喪失を経験するほどに、バンド自体の「生き様」も含めて感度を深めていくような、とても素晴らしいバンドでした。恐らく再結成は望めないのですが、そのさびしさを含めて、これからも愛し続けたい音楽のひとつだと思っています。

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