竜とそばかすの姫 感想

自分のための整理なのでネタバレ等には一切考慮していないです。以下本文。

概説
本作はどういう物語なのか、と書こうとすると、なんとなく悩んでしまう。それはこの作品があまりに多くの題材を抱えているからだ。
だが、強いて本質的なストーリーラインに着目するのであれば、この作品は主人公、すずの成長物語であると言えるだろう。

すずは田舎に住むおとなしめの女子高生で、幼い頃に母親を亡くしたショックから、母と共に練習してきた歌が歌えなくなってしまった。それが仮想世界「U」で新たな自分を手に入れると、そのくびきから解き放たれ、電脳のアイドル”Belle”として活躍するようになった。ところがある時、Uの嫌われ者である”竜”にライブに乱入されたことをきっかけに、竜と心を通わせるようになる。その一方で、Uユーザーの竜に対する風当たりはエスカレートしていき、それを境に竜の正体の特定合戦が始まる。結果的にすずたちは竜が虐待を受けている少年だということを突き止めるが、正体を明かしても信用してもらうことができなかった。すずは自分がBelleであることを証明するために、ライブの途中で自らアンベイル (バーチャルのアバターを脱ぎ捨て、リアルの姿で仮想世界に立つこと)し、素顔を晒して歌を歌う。ここの演出が本当によかった。

本作の魅力
本作の素晴らしいのは、なんといっても壮大な仮想世界の描写と、映像を彩る音楽である。美しさとカッコよさを併せ持つ立体的な電脳の世界は「サマーウォーズ」のOZとも繋がるところがあるが、格段に映像が進化しているという印象を受けた。ここの描写があまりに美しいためにもう一度映画を観たいと思ってしまうドライビングフォースとなりえるほどだ。また、Belleの魅力的な歌をいくつも実際に作り劇中で流してしまうのは、これが映画だからできる表現方法である。すずが歌に思い悩み、歌とともに成長する——と映像や言葉で語るのみでなく、リアルな音楽で受け手に訴えかける二重の構図により、われわれは深く感銘を受けてしまうのである。
また、細田監督の作品はしばしば現代社会の問題をファンタジーに組み込むことで知られるが、この作品があえて扱った問題にも着目したい。それは「デジタルコミュニケーションのあり方」と「虐待」だ。
前者についてはこの作品が扱うのに極めて自然であり、当初からこの問題に踏み込むことを狙って作られた脚本であるなら、完成度の高さに舌を巻くほかない。作品の舞台装置として機能するUという電脳世界そのものが巨大なコミュニケーションツールであり、したがってその問題点へ踏み込むのも展開としてスムーズである。
一方でこの作品で描かれた鈴の成長とは、仮想世界におけるもう一人の自分を得て歌を歌えるようになったことではなく、最後に自分の素顔を数億人のファンの前にさらけ出して心を向きだしにして歌ったことだ。この展開からは、顔を隠して活動するアーティスト (Vtuberなど?) への批判が込められていると思えなくもなく、実際そういった趣旨で本作に噛みつく意見も多数見られる。
細田監督の真意がどうあれ、特にインターネットを通じたコミュニケーションが批判的に描かれている部分があるのは否定できない。たとえばBelleの人気が上がるにつれ叩くアンチが出てきたり、幼馴染みのイケメンと手を繋いだとしてSNSですずが女子生徒から叩かれたり、自分の暮らしを美化してインスタに上げる主婦がいたりなどのシーンがそうだ。いずれのシーンにおいても、一歩間違えば人間の醜い部分が一気に露呈するレベルで悪意や虚栄心が描かれている。
だが個人的には、「バーチャルは悪で、リアルでのつながり、自分の身体を晒す誠実さこそが至上だ」と本作が言いたいわけではないのだと思う。その根拠となるのが、ラストシーンの描写だ。アンベイルされたすずは自分の想いを歌い上げたのち、クジラに乗ったまま、Belleの姿へとまた戻る。もしもこの作品においてBelleがすずの仮初めの姿であり、脱ぎ捨てるべき殻として描かれるのであれば、このように「もう一つの自分」として大切に扱われることはないだろう。すずが捨てたのはBelleとしての自分そのものではない。Belleへ依存し、Belleなしでは他人に自分の心を打ち明けられなかった己の弱い部分なのだ。

本作の問題点
作中に込められた現代社会の問題の二つ目が、竜のオリジンである圭と彼の弟に対する父親の虐待だ。だが、これは非常にセンシティブな問題であるのに拘わらず、本作では拍子抜けするほどに軽く扱われている。竜の身体の痣が圭とリンクしていること、その虐待の様子がyoutubeの動画からすずたちに伝わるところまでは良かった。虐待で押さえつけられた圭の心が暴力性となって竜の姿を形作っているという説明も理屈が通っている。だがそれほどまでに彼を苦しめた「どうしようもない」現実が、この映画ではあまりに雑に解決させられている。
なぜ大人たちが見守る中で、虐待に苦しむ圭を救おうとするすずをひとりで東京に向かわせたのか? 高校生の少女がひとりで他人の家の虐待を解決できると思っていたのか? すず一人であれば少女のひたむきさが美しく映るが、大人が同じ思考をしていいわけがない。そして単身すずが東京に行って、偶然外を出歩いていた圭に出会って、激怒する父親にはすずが睨みを利かせてハイ解決、はさすがに言葉を失うしかない。
細田監督はこの虐待という要素を元から真剣には考えていなかったのかもしれない、という推測はあまり的を得ていないだろう。なぜなら、虐待でなくともよかったからだ。竜の暴力性と孤独に説明をつけ、すずが自分の殻を破り、アンベイルを受け入れるための理由として虐待という要素は機能している。ただ、そのピースは虐待である必要性はなかった。もっと丸く収まる設定があったはずなのだ。
つまりあえて本作で描くターゲットとして虐待は選ばれたとみるべきで、だからこそ、ずさんな扱いが残念極まりないのである。
そもそも、竜というキャラクターにまつわるあれこれに綻びがたくさんある。一例として、Belle (すず)が竜に惹かれる理由が一切描かれていない。悪い男だけれど実は優しい的なギャップが理由だとするなら、たとえば城のAIたちと竜の交流を丁寧に描くなどの演出が必要だった。一目惚れだとしたらどうしようもないけれど、それはそれで視聴者にわかるようにしてほしい。
また、竜がUの住人達に嫌われる理由もよくわからない。無差別にUの住人を襲うモンスターというわけでもないのに対戦相手をボコボコにしただけでこんなに叩かれるなら、「サマーウォーズ」のキングカズマも同じ運命にあっておかしくない。竜がこの作品の準主人公的な立場だとすると、さすがにもう少し掘り下げを頑張ってほしい。
あとついでに竜のオリジンの特定合戦が始まったのもしっくりこなかった。「あなたは、誰?」がキャッチコピーではあるが、なぜBelleは竜の正体を早々に知りたがったのか? もしかしてこれもネットのコミュニケーションの批判につながっているのだろうか。どれだけ仮想世界が充実しても、心はリアルのつながりを求める的な。これも伝わらないなあ。


総評
もしも仮にこの作品が「美女と野獣」のような、Belleと竜が心を通わせていく物語だとするなら、大きな違和感をどうにかやり過ごして映画を観るしかない。ネットの酷評も仕方が無いだろう。
だが、この物語はあくまで一人の少女の成長譚である。そう考えると、竜うんぬんのイベントはただのサブストーリーだ。すずはアンベイルを自ら選び、素顔を晒して歌った時点で彼女の物語はほぼ完結していた。
そして竜のサブストーリーにさえ目をつぶれば、この作品は完成度の高く、魅力のはっきりしている名作であると言えると思う。


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