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コインランドリー36

夢想家の僕は勝手に書道家を夢見て早稲田大学書道会を覗いてみたが、本気で書道を極めようとしている人達に対して、なんて思いあがった思いつきだったと反省した。

何事も中途半端はあかんなあと思い直して、少林寺拳法部での練習に励んだ。

マルチに何でもできることを夢見がちな性分なので、少林寺拳法にはしっかり取り組もうと改めて思ったのである。

後輩が何名か入部し、部での決め事や相談に乗る立場となった。
初心者で武道を始める不安は誰にでもある。
後輩達のそんな気持ちに寄り添うことを心掛けて接していた。

相変わらず、バイトを掛け持ちしていた。平日は焼き鳥屋さん、休日は引っ越し屋さんである。

毎日の仕事の疲れを癒すお酒と料理、新しい環境で心機一転する人を陰で支える引越し。いずれも人生に密着したバイトだと感じていた。

一方で学問は相変わらず、お粗末だったが、好きな小説を読むこととたまに見に行く映画が僕の楽しみだった。

お酒を飲みに行く機会は増えた。少林寺拳法部の同期ではなく、焼き鳥屋さんの板前さんに誘われて、仕事が終わってから、近くの小料理屋やスナックに連れて行ってもらうようになった。

煮方の天満屋さんは良い兄貴分で若い高崎君と3人でスナックには何回か連れて行って貰った。

静岡出身の天満屋さんはバイクが好きでカタナの1200ccに乗っていた。

高崎君は高校時代に千葉の銚子で暴走族をやっており、シンナーを袋に入れて吸っていたという話を面白おかしく話してくれた。
このままではダメになるという漁師の父親が高校を中退させ、高崎君を同じ、千葉県銚子出身で高田馬場で焼き鳥屋を開業したニュー鳥美喜の社長に預けたという事だった。
高崎君はシンナーと暴走族から離れて、改心して、板前の世界に16歳から入ったとの事で、今は19歳だった。
まだ、板前4年目だったが堂々としており、手先も器用で、板場でもみんなに可愛がられていた。
僕なんかより女遊びやお酒も場数を踏んでいたが、僕には親しく接してくれた。将来は銚子に戻って自分の店を持つことが夢だった。

もう一人の若手の常世田さんは中学卒業後にニュー鳥美喜に入社して、板前をやっていた。
僕より二つ年上で23歳だった。
社会人歴は15歳からなので、7年目だ。
今年一杯でこの店を辞めて自衛隊に入って料理を作る事が目標だった。お酒はからっきしダメで、一緒に飲みには行かなかった。

スナックに行くと僕はカラオケは得意だったので、天満屋さんと高崎君のリクエストに答えてよく歌った。

そのスナックのマスターにも良くして貰った。蝶ネクタイをしたマスターはどこかお茶目で人を惹きつけるところがあった。たまにマスターの店が休みの時はニュー鳥美喜に焼き鳥を食べに来られていた。

来店されると『がんばってるか、竹脇君❗️』と声をかけてくれた。

焼き鳥と大衆割烹料理を提供するニュー鳥美喜はサラリーマンで毎日満席だった。
学生には少し高めなので、新歓コンパやサークルのコンパでコース料理の時には2階の座敷が利用されていたのである。

バイト仲間では介護士を目指す福祉系の専門学校に通うみなちゃんは明るく気立ての良い女の子だった。
群馬県太田市から出てきてひとり暮らしをしながら、真面目に専門学校に通いながら、介護士を目指していた。
ひとつ歳下だったが、しっかりとしており、テキパキと接客をしていた。

佐藤さん、中山さん、山本さんのおばさんトリオもそれぞれの事情を抱えてパートに来ておられた。

社長の海上さんにも奥様共々可愛がられた。ニュー鳥美喜を軌道に乗せ、近くに高級割烹『海かみ』を出店されており、通常はご夫婦で『海かみ』に出ておられた。

『海かみ』にニュー鳥美喜で切らした材料を貰いに行くこともあり、全員が着物を着た中居のおばさま方に可愛がられた。
7月には1泊2日で慰労会があり、アルバイトも招待して貰った。

このように家族のような二つのお店はみんな仲良く仕事をしていた。
そんな環境に僕も馴染み、沢山のおばさま方に可愛がられていたのである。
また、ニュー鳥美喜と海かみとで結成されていた野球チームにも誘われて、早朝野球にも参加する様になった。
高崎君は中学時代は野球部で運動神経も良く野球は上手かった。

一方で夏休みに入るまでは少林寺拳法部のイベントは新歓コンパ、早慶合宿、野球の早慶戦観戦とコンパ、早慶防定期戦、関東学生大会と毎月何かしらの行事があり、慌ただしかった。

僕の2年目の学生生活はバイトと部活動に明け暮れて前期試験も適当に夏休みを迎えるのであった。

続く

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