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コインランドリー34

僕は子供の頃から目立ちたがりだった。常にみんなに注目されたい、認められたいと思って何でも一生懸命にやって来た。
自分で言うのも恥ずかしいが小学時代は体育と図工以外はオール5だった。
しかし、ちょっとそのことを鼻にかける嫌味な部分はあったと思う。
両親ともに和菓子屋で忙しく基本は放任主義だったので良い成績をとっている僕には特に何も言わなかった。

そんな僕が小学3年生の時に、キス事件を起こす。
担任が出張で休みの日にふざけた僕と中村くんがクラスの女の子を追いかけてほっぺにチューをすると言う行動をとったのである。
僕は当時好きだったみゆきちゃんのほっぺたにチューをした。
彼女は嫌がり、泣いた。
そのことで騒がしくなり、誰か女の子が職員室に報告したらしく、翌日担任の中島先生が自宅にやってきて両親にそのことを報告した。
僕は父親にこっぴどく叱られた。
当時6年生の兄も職員室に呼び出されて担任から報告を受けたようだった。
兄は笑いながら「お前は大したもんや」と言ってくれた。
母親は「人が嫌がるような、アホなことはしたらあかんぞ」と笑いながら僕を戒めた。
一部の男子から当時流行っていた、ちあきなおみの「喝采」の替え歌で「あれは3年前、逃げるみゆき追いかけて…」とからかわれた。
この事件以来、少し大人になった僕は人の嫌がることはやったらあかんと改めて自覚することになる。
また、小学4年の時に、掃除をサボって箒で戦って遊んでいた4人が担任の湯野先生に見つかり、黒板の前に立たされて一人ずつビンタを受けた。
その学期の通信簿の通信欄には奉仕的精神にかけると書かれて、親には叱られた。
このことから奉仕的精神と言う意味を知り、掃除や人のために役立つこと、そしてカブスカウトにも入団して、奉仕の精神を学んだ。

中学校で野球部に入り、縦社会を体験する。
身体の成長ともに運動神経でこいつに勝てないと思うことも出てきて、少しずつ内向的な面も出てきた。特に反抗期はなかったが、何となくこの頃から現実から離れて妄想することが好きになってきたのかもしれない。
自慰行為をおぼえたのも中1の冬だ。
初めての精通は建て替え中の家に仮に置いてあった簡易のお風呂の洗い場だ。
これまでの五右衛門風呂にはシャワーはなく、この簡易風呂についていたシャワーを使い、初めての精通を経験し、腰がひけた思いは今も衝撃的だった。
他のみんなはもうすでに経験していたので、やっとみんなに追いついたと思った。
中3から数学が苦手だと感じるようになっていた。
中学での悩みは鈍足であることだった。
中学1年の母親を交えた三者面談でも担任の中村先生から、何か悩みはあるかと聞かれた時に、「足が遅いことです」と答えていた。担任の中村先生は陸上部の顧問で、自身は短距離の選手だったらしく、笑いながら、「早く走るためには練習することしかないなあ?」と曖昧な回答しかなかった。

高校では本当は硬式野球部に入りたかったが、鈍足の僕はたぶん大成しないだろうと判断して入部を断念した。
そして隣町に通学することで、違う中学から集まった同級生や当時はまだいた不良と呼ばれる短ランの先輩達や同級生などを内心では怖いと感じるようになり、内向きな思考が強くなって行き、あまり目立たないような行動を取るようになり、帰宅部に徹するようになった。
もっと行動的に自由にやっていたら、もっと楽しい高校生活を送れていたのではないかと後悔することも多いのである。
ただ、精神的な世界に入ることで気づいたことも多かった。
通信添削をすることで優秀な人間は日本にはもっともっといることを知り、小説の世界ではもっと人間の創造力や日人の思考、日本の歴史などに強く興味を持つようになって行った。

高校2年の時には乳首の周辺に何かしこりのようなものが出来て、触ってると乳首からオッパイが出た。
シューと前に飛んだ。
えーと驚き、病院に勤務していたおばさんに相談して、医者に診てもらった。
その場で実践して乳首を触ってシューとオッパイをだした。
医師は笑いながら「思春期にはそう言うこともあるよ。何も心配することはない。そのうち出なくなるよ。」と慰めてくれた。
確かにそのうち出なくなった。
また、兄が大学に入学して、実家に一人の夜に兄が買って貰っていた顕微鏡で僕は精子があるのか調べてみようと思い、兄の部屋から顕微鏡を持ち出し、自慰行為をして、精液を顕微鏡で見ると、倍率は悪かったが、精子が激しく動いてるのが見て取れたので安心した。
たぶん俺には子供が出来るんやと安心したのである。
何事も経験しないと納得しない。小田実ではないがなんでも見てやろうの精神は今でも根付いている。

そんな僕が焼き鳥屋さんで、アルバイト始めて1ヶ月が経った。
洗い場とフロアの生ビールやチューハイを作ることは覚えた。
接客は佐藤さん、中山さん、山本さんの3人のおばさんとみなちゃんと言う専門学校2年の女子学生、土日に入っているまだ会ったことないが青山さんと言う早稲田の男子学生を加えて総勢6人でシフトを組んでいた。
板前さんが料理を作るのを見ることも楽しかった。
板長の山下さんの見事な包丁捌き、煮方の天満屋さんの手際良い盛り付けなど職人の世界にも素晴らしいものを感じていた。
父親が和菓子職人だったので、その手捌きにも関心していたものだ。また、父親が熨斗紙に筆で送り主の名前を書いたり、御供、お見舞いなどと書くのを横で見てて、子供の頃から筆を持って真似ていたことが字が上手くなった理由だと思う。

こんな経験をふまえながら、僕はなんとか道と言う何かを極める世界観が好きになっていったのだと感じている。

焼き鳥屋さんでの次の目標は焼き鳥を焼かせてもらうことになっていた。
店長焼く姿を目に焼き付けていた。
ねぎま、砂肝、皮、つくね、レバー、うなぎ、うなぎもも季節で出していた。

またカウンターで一人で飲みに来るお客様とも仲良くなった。

出版社の編集者、カーディラーの営業課長、製薬会社のプロパーなどおばさんたちから素性を教えて貰い対応した。

なんか大人になった気分になっていった。

ある日客が少ない時にカウンターに座って中山さんがタバコを吸い出した。
竹脇くんもどうと言われて「ハイ」と言って貰ったタバコを始めてまともに吸った。
頭がクラクラしていたが、その時からタバコを覚えたのだ。
佐藤さんも、山本さんもみんなタバコを吸っていた。
板前さんで吸わないのは山下さんと常世田さん。山下さんは味覚かわからなくなると言ってタバコは辞めたそうである。
流石にプロやなあと感心した。

そんな大学生だか、接客修行中の新入社員かわからない生活を送っていたが、何故か充実感があったのである。

そしてまた
僕はある行動に出る。

続く

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