ディープフェイクと向き合うために(note:3)

 ディープフェイクとは「deep learning」と「fake」を組み合わせた言葉で、深層学習によって精度を高めた偽の画像や動画、またその作成技術のことをいう。これには通称「GAN(Generative Adversarial Network)」、敵対的生成ネットワークが利用される。まず与えられたデータをもとに「ジェネレーター」が可能な限りリアルなコンテンツを作り、一方で「ディスクリミネーター」がそれを本物か偽物か検知し、フィードバックされたデータを元により精巧なものを「ジェネレーター」が作る。試行回数と共に「ジェネレーター」も「ディスクリミネータ―」も成長し、人間や他のAIでは見破ることができないフェイクができあがるという寸法だ。

 GANを使ったディープフェイクは既に年1万件を超えている。また、バラク・オバマがドナルド・トランプを罵倒する有名な動画のように、政治的なキャンペーンとしての悪用も懸念されている。最近は「VAE(Variational Auto Encoder)」という更に使いやすいツールが出てきたようで、素人が気軽にディープフェイクを作れるようになるのも時間の問題だろう。ウソをひとつひとつの作品で見破るのは難しくないかもしれない。だが、その間にもより過激なアイデアを伴ったフェイクが、よりクオリティを高めながら無数に拡散される。だまされる人間が増える。何も信じられなくなる。そして、「見破るのは難しくない」と書いたが、実はそうでもないらしい。既に。

 松本一弥『ディープフェイクと闘う 「スロージャーナリズム」の時代』は、そのように加速するポスト・トゥルースの現状を多角的な取材、文献、考察によって可視化し、抗う術を探っている。拡散力がものを言い、ファクトベースに考えていたら損をする時代で、辛くても正面突破したければどうすればいいか。この本には考えるヒントがたくさん転がっている。そもそもこの本はジャーナリズムの教科書に載せてもいいくらいノンフィクショナルな書籍としてきれいな構造をしていて、そういう意味でも勉強になる。自分自身の再読に資する覚書とするためにも、少しだけ紹介したい。縦糸に「速い/遅い」、横糸に「問い/応え」を据えて4項目に分ける。

 1.「速い問い」。速報性がある。発売日が先月で情報の鮮度が高いだけではない。トランプ政権の成立と進行、沖縄基地移転問題におけるデマ、ボリス・ジョンソン政権の下いよいよ実現への瀬戸際を迎えたブレグジット。タイムリーな現場でフェイクやフィルターバブル、サイバーカスケードなどの問題が、そこから生み出されるヘイトや差別感情、また思想だけでなくビジネスやカルチャーやテクノロジーも踏まえて実際どのように作用しているかを様々な研究者、メディア関係者、アクティビストなどの話から概観できる。例えばハーバード大学バークマンセンターのリサーチディレクター、ロバート・ファリスの研究によれば、マス/ネット問わずメディアにおける政治思想の言説がフェイクとエコーチェンバーで過激化する数は右派陣営が突出して多いのだという。左右どちらの情報が正しいかというファクトの在り処の話ではない。ファクトチェックによってウソが含まれていると分かった上で左派はそのフェイクを引っ込めるが、右派は拡散できるならやっちゃえやっちゃえで押し出す戦略が統計的に見られるということだ。またフェイクを生み、試し、選別し、バズらせる明確な戦術さえ紹介されており生々しい。これを一端として多くの分析がある。

2.「遅い問い」。探究心がある。そもそもネットだけでなく今のメディアのあり方が崩壊したのはなぜなのかを取材先との対話で深く考えようとしている。例えば他人をフェイク呼ばわりしながら自分はフェイクを撒き散らしているドナルド・トランプにメディアが振り回されているのは、彼の発言をすぐに伝えるための速報性を重視してファクトチェックのシステムが後手に回っているからだ。「お前から見れば俺はフェイクかもしれんが証明されていない。俺から見たらお前はフェイクだ。俺の庭から出ていけ」となる。他にもブレグジット推進派はエゴや差別意識だけで動いてはおらず、そこには自分たちが選んだわけでもないブリュッセルにいるEUのよくわからん偉いやつらが勝手に何でも決めてくる、という不信と反感がある。懐疑と自己決定を伝統的に重視するイギリスの精神風土そのものが原因なら問題はとても根深い。またメディアビジネス自体の歴史にまでさかのぼっているのも興味深い。ケーブルテレビやITベンチャーが勃興時に既存のマスな企業に対抗するにはどうすればいいか。まずはニッチな層に刺さるコンテンツでそのファン層を奪取するのだ。ランチェスター第二法則は戦闘力=武器効率 × 兵力数の2乗。コンテンツ産業で武器効率を安直に考えるとそのまま刺激の強さになる。こうして刺激のインフレーション、刺激>全てが起こっていく。

3.「速い応え」。これは実際に読んでいただきたいのだが、1と2で示された社会へ、今まさに立ち向かっている人たちの努力と方針を見ることができる。たとえば邦訳でも何冊か著書が読めるジェフ・ジャービスはジャーナリズムはひどい場所だからといってSNSなどをやめるべきではないと説く。大切なのは話を聞かせることではなく、こちらが話を聞くことなのだと。

「人々のことを『一般大衆』と考えるのはやめて、『個人』や『コミュニティーの一員』として認識し始めると、人々と出合い、話を聞き、学ぶことの大切さを実感し始めます。そしてそうした人々とのつなぎ役をしてくれるのがツイッターやフェイスブック、ユーチューブで、(今後はこれから生まれる)想像もしていないツールもあるでしょう。単に(報道の)コンテンツを生産するのはもう古い、それは廃れゆくマスメディアの価値です」

 もちろん彼のような楽観的な見解がうまくいかないから疲れてしまうのだというツッコミが読者から多く入るだろうし、実際に他のインタビュイーから入る。しかしこの発想自体の可能性を著者は見田宗介の言葉から探っていく。見事な手際だと思う。他にも目をみはらされたのは、第一線でフェイクに対抗する人たちが総じて悲観的でないことだ。絶対に成功する、あるいは成功しないかもしれないが足跡に意味があると留保抜きに確信している。この本にはツヴェタン・トドロフの『民主主義の内なる敵』が引用として出てくるが、僕は彼の別の著書『フランスの悲劇』に登場する、なんでもない人々の善意を思い出した。彼/彼女らは政治思想や利害関係など完全に抜きにして、自分の命を危険にさらし、しかし英雄精神などみじんもなく、他人の命を救うために動いていた。絶望的な状況で絶望せずに。

4.「遅い応え」。さて、これからどうすればいい? 書かれているのはノンフィクションであり、読者が否応なく巻き込まれているっぽいひとつの現実である。著者はリベラルよりの思想ではあるが、右だろうが左だろうが関係ない。大切なのはファクトであり、それを検知するリテラシーだ。誰だろうとバカと言われたくないはずだろう。しかし、自分がバカと言われないように、今ある価値を全て台無しにしてしまうアポカリプスの到来を望む人間が大勢いる。カッコ付きの「世界」をあたかも終わってしまうかのように語り、これが現実だ、とうそぶく。僕もいつそうなるかわからないし、もう実際にそうなっているのかもしれない。でも諦めるべきかどうか、いつでも改めて考えたほうがたぶんいい。黙示録の時がきたら嫌なことと一緒に夢も希望も楽しかったこともぜんぶちゃぶ台返しになるわけだ。そのときの神だか支配者が、あなたのことを考慮してくれる保証なんてどこにもない。僕はそう思っているからなんとかここでやっていくためのヒントを探しているし、この本にはそれがたくさんあった。最終章の考察部分では丸山眞男の言葉が引用されている。何度でも読んでいい言葉だと思う。ここにも書く。

 現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、他面で日々造られて行くものなのですが、普通「現実」というときはもっぱら前の契機だけが全面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性にだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。「現実だから仕方がない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。(中略)私たちは観念論という非難にたじろがず、なによりもこうした特殊の「現実」観に真向から挑戦しようではありませんか。そうして既成事実へのこれ以上の屈服を拒絶しようではありませんか。そうした「拒絶」はたとえ一つ一つはどんなにささやかでも、それだけ私達の選択する現実をヨリ推進し、ヨリ強力にするのです。

 実にいい本でした。

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