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『四丁目の文明の衝突』(もしくは、散文詩『壁の祈り』)

現代の日本をも含む世界各地では「四丁目の文明の衝突」とも言うべき事態が多発している。保守vsリベラル、関西人vs東北人、日本人vsベトナム人、官僚vsフリーター、発達障害者vs視覚障害者、レズビアンvsMtF、イスラム教徒vs仏教徒、老婆vs若僧、etcetcetc…皆が皆、思い思いのままに自らが育った「文明」の下に他人と争い合っている。だがその対立をなくして「多様性」の美名に「連帯」させようという動きは果たして「美しい」のだろうか。
そもそもヒトも動物なので、本来は生き物として苦痛を回避したがるはずではないか。D・ベネターの言説ではないが、例え肉体や知性の消耗があろうとも「トレーニング」「精神の鍛錬」と称して敢えて困難な環境に身を置くよりも-それを好き好んで行いたがる人もまた哀しい哉我々の時代にはいるのだが-、不快な刺激による苦しみを避ける方へ人類は発展していったのは歴史を見ても明らかだ。食糧を得る手段を狩猟と採取から牧畜と農耕へ発展させてから数千年、産業革命も情報化も「作業に伴う肉体への負荷を軽減したい」「生産に伴う頭脳への負荷を機械にアウトソースしたい」という人類の欲望から進んだのではないか。

そう考えると所謂ミレニアル世代やZ世代と呼ばれる若者たちの多くは「賢い」と言えるだろう。タバコを吸わない、酒も飲まない、車を運転しない、国外はおろか国内の他の地域にも旅行へ行かない、恋愛もしないどころか結婚にも無関心で、「いまここ」で流行しているモノにすぐ飛び付いては消費するのみに思える。それに、上の世代から聞こえる「スキゾ・キッズの成れの果て」という悪口も華麗にスルーする。
それに、何よりも彼らの多くは苦痛と困難に囲まれた環境に身を置くくらいなら、その場の刺激で快感を得ることを優先しているではないか。「行き過ぎた個人主義」という批判は彼らには無効だ。彼らのライフスタイルこそ我々にとっても学ぶべきところがあるのではないか。

「田舎の勉強より京の昼寝」と人は言うが、その昼寝中に悪夢にうなされたり睡眠を邪魔されたりしてずっと不愉快な思いを引きずり続ける可能性があるのなら、ずっと田舎で勉強し続けている方がよかろう。それに「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」とも言うから、あれほど先人の警告を受けてもわざわざコストと時間をかけて不愉快な体験をしに行くのなら、だったら最初から警戒して外界と関わらず地元に引きこもり小学校からのいつメンと遊び続けたほうが良いという若者は、わざと苦痛の中に身を置くことが精神の陶冶につながると頑なに考え続ける我々先達の世代に比べれば、実に賢いのではないだろうか。

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