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~What a wonderful man~

 田舎暮らしに車は必需品だ。20歳で免許を取り、何台も車を買い替えてきた。今は、妻と二人暮らしなので、郊外のスーパーへの買出しに使うのがメインだが、子育てに奮闘している頃は、子どもの部活の送迎、家族旅行などによく利用していた。
 
 10年ほど前、子どもの大学進学を機に、愛用していたステップワゴンからコンパクトカーに乗り換えることにした。私は若い頃からホンダ車が好きで、ルイ・アームストロングの「What a wonderful world」が流れるCMで有名になったワンダーシビックは特にお気に入りの車だった。
 
 私が車を買うとき時パターンは、まずディーラーから車の性能などについて大まかな説明と価格を聞く。そして、他社の提示条件などを伝えながら商談を進め、最後は、「この付属品もサービスでつけて、ガソリン満タン納車してくれるのなら契約します。ダメなら、他社の車にします!」という決まり文句でディーラーを攻めるというものだ。
 
 今回はホンダのフィットを狙っていたが、値段交渉の参考にするため、トヨタの販売店をのぞいてみた。応対してくれたのは若くて感じのいい青年Sくんだった。私の話を聞いて紹介してくれたのはパッソ。価格も手頃で、室内も広く、燃費もいい。ただ、その店には1300CCの試乗車が無かった。子どもたちがいる大阪や名古屋に行くには、リッターカーより少しパワーがある車がほしかった。試乗してみないと決められないなあ…と彼に伝え、店を後にした。
 
 翌日、彼から電話があった。試乗の手配ができたので、店にきてほしいとのこと。私と商談した後、彼は100キロも離れた系列店に車があることを見つけ出し、車を取りに行ってきたという。もちろん帰宅は真夜中だっただろう…。早速試乗してみた。フィットと比べてどうかなあ…という感じだったが、すぐに行動を起こした彼の姿勢に私の心は動いた。
 
 こんなこともあった。ステップワゴンのタイヤ周りに少し違和感を感じていたので彼にそのことを話してみた。彼は、スーツのまま車の下に潜り込み、不具合をチェックしてくれた。季節は夏。夕立ちが降った後だったので、かなり蒸し暑い中でのことだった。彼は汗だくになり、スーツが泥で汚れていることも気にせず、笑顔で「大丈夫みたいですよ」と一言。その瞬間、フィットは私の選択肢から消えた。結局、いつものパターンで交渉することなく、一番グレードの高いパッソを買うことにした。ディーラーに惚れ込んで車を買ったのは初めてだ。
 
 私は今ホンダのN BOXに乗っているが、街でパッソを見かけるたびに彼を思い出す。一台でも多くの車を販売することがディーラーの仕事。できるだけ高い値段で、短期間に契約まで持ち込みたいのが本音だろう。彼は、そんなそぶりは全く見せず、顧客の想いを真摯に受け止め、思いもよらないようなサプライズ対応をしてくれた。顧客の希望に応えるのは接客の基本だが、若い彼が今でも心に残るような感動を与えてくれるなんて夢にも思わなかった。
 
 彼は、今、ディーラーを辞め介護施設で働いている。先日、たまたま妻が彼を見かけたらしく、「Sくん、汗だくになってお年寄りのお世話してたよ」と教えてくれた。彼ならどんな職場でも愛され、仕事もきっちりこなすだろう。

 彼から毎年年賀状が届く。いつも奥さんと子どもと一緒に幸せそうな写真付きだ。歳を重ねても、彼のように純粋で真摯な気持ちで人と接することを忘れてはならないと、彼の年賀状を見るたびに心に誓う。
 

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